月の詩(うた) | alcyoneのブログ

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宗教と戦争を見つめて考える、欧米と日本の精神観の違い。


ニートしてた時期、有り余る時間を好奇心を満たすことに使っていた時期、僕がイラク戦争に直面して疑問をもった「宗教と戦争」の関係性。
信仰心だけでは説明のつかない政治の不可解な動きには、どういった発想が隠れているのだろうか。
そんなことを漠然と思っているうち、一方で言葉の意味を自分の中で確立することに血道をあげていた僕が、稚拙ながらたどり着いた、僕の感じた違和感についてのリクツです。
長いです。すいません。


欧米や中東では、古くから宗教は統治装置であり、現在も多くは宗教が社会の基盤です。
形成される社会の望むものに沿うものが正義であるとするならば、宗教が正義であると言えます。
法と道徳は宗教のもとに決定され、宗教が社会を統治します。
『宗教=正義』の世界です。

他方、キリスト教世界において、騎士道は統治者ではなく、宗教の擁護者として成立しました。
宗教的な世界観をもとに、自身の擁護する世界と社会を守護する防人です。
彼らはときに異教徒に対して残虐でしたが、守るべきものに対しては一貫して保護してきました。
そして得たのが、現代の軍人に繋がる「弱きを救い、それを守ることを最大の名誉とする」価値観です。
これは社会に対する人の心の美しい動きを象徴する価値観でしたが、支配者の論理ではありません。
自己を律し、その力の使い道を見極める。
『武人=倫理』の世界です。


一方、日本ではどうでしょうか。
日本には古来より、神である天皇を中心とした神道がありました。
政はすべて、神である天皇の意の下で執られます。
支配者のための思想という意味では、ここまでは大陸の宗教と同質でした。
日本が違ったのは、強大な先進国である中国から仏教が輸入されたことです。
当時の世界において、宗教の位置付けは現在と違い「学問」であったと僕は捉えています。
『統治のための学問』です。
日本はこの仏教という最新の学問を、神と仏を両立させた上で治世に取り入れることで、仏教の道徳観と神道の精神観を同居させることに成功します。

その数百年後、日本は長く武人の支配する世界に変質していきます。
神は政の外へ追いやられ、武士の論理が支配する社会になりました。
武士による戦争のための政治は、やがて「主に仕え、忠実であること。死を以って忠誠を示す事を誇りとする」価値観を生むに至り、やがて戦の中で命を散らすことを最大の美徳とするように変節します。
これは個人の意思より組織の意思、心の動きより社会の大義を優先する思想で、或いは強迫的でもあります。
その思想は道徳的通念となり、1000年の間、侍の社会を支配し続けました。
この帰属社会や組織への恭順、忠誠、犠牲を美徳とする「模範的な集団意識」は、その媒介物を変えながら現代の日本社会にも受け継がれます。
『武人=正義』の世界です。

では日本において宗教は価値を失ってしまったのでしょうか。
確かに信仰は薄れました。
自身を無宗教だと考えている人も多数です。
しかし、故人の追悼、願掛け、祖先への感謝を思うときの我々の「文化的振る舞い」は、紛れもなく宗教儀式であり、その様式は簡略化されつつ、今も我々の社会に息づいています。
また我々の多くが考える「日本的精神性」も、そのほぼ全てが神道や仏教の思想に基づくものです。
これはどう位置づければ良いでしょうか。

僕は『文化=様式』、『文明=学問』と捉えることで、答えを見出せると考えました。
『文化とは、そこにある人々の形作る様々な「様式」であり、その盛衰を媒介者の生死と同じくする。』
『文明とは、知性の蓄積により形作られる様々な「学問」であり、その媒介者が滅亡してなお、存在する。』
社会を人に例えた上でわかりやすくすれば、文化はその人の所作や癖のようなもの、文明は彼の残す文学やレシピ、といったところでしょうか。
彼が亡くなればその癖や仕草は記憶の中にしか残りませんが、文明は受け継がれる限り残り、また発展します。

ちょっと脱線してしまったでしょうか。
日本において政の中枢から弾き出されてしまった宗教ですが、その役割を『治世のための学問』から『生活の中の様式』とすることで、日本にしかない、日本人しか理解しない、独自の文化として形を変えたのです。
そして文化が人の生活の上に初めて成立するものなのだとすれば、その様式は人々の知性・心の在り様を受けてさらに変質していきます。
つまり、社会を統治するための法や道徳(『正義・悪』)ではなく、人々の生活や知性に拠る『善・邪』の代弁者です。

ここでもひとつ言葉の解説を入れさせてください。
僕の世界観における、僕の言葉の解釈です(といっても一般的なそれとは大きく違わないと思います)。
『正義とは、社会が望む、社会の為の論理であり、社会を維持し、社会を発展する為の原則である』
『正義の敵は、その帰属社会と競合する社会の、もう一方の正義である』
『善とは、正義に拠らず、社会性ある一個の知性の表明する、犠牲的で純粋な良心の発露である』
『邪とは、社会にある知性の表明する、自己優先的で利己的な心の動きである』

ここで道徳と倫理という発想を重ねれば、『社会に利する通念=道徳』、『個人の心を律する論理=倫理』とする事ができるのではないでしょうか。
遠回りしてしまいましたが、現在にあって日本の宗教は、人の心を律する様式となりました。
『宗教=倫理』の世界です。


宗教を正義とし、騎士道を倫理の象徴とする欧州。
武士道を正義とし、宗教を倫理の触媒とする日本。

つまり・・・
欧米人にとって、人の行動を律するのは法です。行動を要求するのは心です。
日本人にとって、人の行動を律するのは心です。行動を要求するのは社会です。
この違いが、両者の世界観の決定的な違いを生んでいると、僕は思うのです。
僕の感じた違和感の正体も、ここに発するものだったのではないかと結論づけました。

主題の結論は一応ここに決着します。
文章が下手なせいで長くなってしまいました。
畏れ多くも携帯電話から読んでくれてるマメな方、ごめんなさいでした。
稚拙な文章な上にマスターベーション的な内容でしたが、それにもかかわらず最後まで読んで戴いて、ありがとうございました。





オマケ。 ↑についての感想と僕の意見

日本人が欧米人に対して感じる違和感、逆に欧米人が日本人に感じる違和感は、すべて結局、それぞれが自らの宗教をどのように位置付けてきたかということに尽きるのではないでしょうか。
法の許す範囲内で、または法に罰せられない内においてすべてが肯定され是とされる世界に対して我々が持つ、感情以上の違和感の正体もそこにあるのではないか。
そう考えたとき、僕は日本という国と日本人にとって、そして世界に対する日本の姿勢として、もっと違う形があるのではないかと思うのです。
法による支配が絶対でないと認めること。万能で優れたシステムなど実は存在しないこと。
そして何より、価値観の衝突による紛争を否定すること。

国家権力をして紛争へ貶める意志とは何に拠るものか。
逆に、法のない世界(より上位の調停者の無い国際社会)で、国家を律することの適うものは何なのか。
軍事を『生存の為の学問』と定義する軍事オタクとして、僕が希求する、そしておそらく全ての人類が希望する最大目標のため、達成のために必要な発想は何なのか。どこにあるのか。

法による支配が実効力を持たない世界で、我々自身を律し、相互の社会を生存せしめる発想。
宗教による支配、武人による支配を経て辿りついた我々日本人の持つ独自の生き様。
鍛え上げた魂でもって心を律し、その決して抜かれることのない刃をして表現される凛とした佇まい。
その極限の美しさは、まさに究極の理想を具現化するに足る唯一の武器である。
思考を重ねるなかで、僕はそのように確信するに至りました。

疑念に満ちた政治の舞台で、自らは刃を抜かず、泰然と、或いは軒昂に、堂々と、ただそこに在ること。
鋭利さと強靭さを持ちながら、しかし一切その刃を自ら抜くこと無く、抜かせず。
そして他者に対しては敵意ではなく、信頼をもって相対すること。
これこそが、恐怖を伴わない真の平和―単に平穏であるという意味の平和からの脱却へ向けた、唯一無二の方策ではないでしょうか?
そして、我らが日本こそが、それを世界に先駆けて示すに相応しい存在ではないでしょうか?



文章の端々に、アニメ『ガサラキ』からの受け売りのような言葉が散見されます。
僕のモヤモヤした考えにピタリはまる的確な表現を提供してくれた作品です。
語彙の豊かさは世界観の豊かさに直結すると思っています。
そういう意味では、僕の人生を変えた作品と言っても良いと思います。
内容的にも素晴らしい作品です。オススメです。
ステレオタイプな思い込みで右だとか左だとかいうスタンスの違いのみを非難しあうことがいかに低次元であるか、そして真剣に純粋に思考することの素晴らしさと美しさを教えてもらいました。勇気が湧きます。
すいません、宣伝です。