壁の穴強盗団 -2ページ目

壁の穴強盗団

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先のエントリーで触れた乙武さんの入店拒否騒動、ご本人が状況説明されてますね。

車いすで入店拒否された乙武さん、ブログに説明文を掲載 ネット上で賛否
 「車いすだからと入店拒否された」。乙武さんのツイートをきっかけにネット上では大きな騒動に発展してい..........≪続きを読む≫
色々と勢い余ってしまった部分があった事を反省されていますが、覆水盆に返らず。でもまぁ、世は事もナシといったところでしょう。

乙武さんが体験された「刺々しい扉のまえで門前払いをされたような、とてもさみしい気持ち」にさせられる事は銀座ではよくある事でしょう。

何処とは言わないけど、銀座の児童図書を扱っている書店は古いビルで客層もハイソな感じの方が多く、ウチの子のような粗野な子供をベビーカーに乗せて突入するにはちょっと気が引ける感じだし、家族連れでゆったり座れるレストランなどもあまり見つからない。

やっぱり「銀座」はそういう街なんでしょう。件の店長が言ったであろう「これがうちのスタイルなんで」というセリフは、そのお店がある"銀座"という街のスタイルを指している気がします。店になにか特別なサービスを望むなら、予約の時点で一言添えるスマートさを要求する街。客に対してある一定のレべルを求める街。それが「銀座」における常識なんだと思う。

自分は京都の事はよく知らないのだが、ぶぶ漬けの話など京都でも同じ様な「客をしょんぼりさせる」対応の話を良く聞く。その街が持つ気位の高さが、今回の騒動の根底にはある気がします。

ところで、乙武さんの状況説明において注目すべきはその「自己開示」能力。
ハンパ無いですね。

どんなことでも「明け透け」られる強さというのは、憧れるものです。
連日の様にTwitter絡みで大小の問題が発生して、三面記事以下のどーでもいい様なクズニュースとして発信されているが、そんなニュースのひとつとして、この問題はどんな展開を見せるだろうか。

乙武洋匡氏の入店拒否騒動 店は謝罪、まとめに疑問も
 18日、乙武洋匡氏が銀座のレストランを予約していたところ、車椅子だったため2階のその店に上がれず、..........≪続きを読む≫
このニュースに対する反応は、前のエントリーの”方向と勢い”でいえば、2極の意見がわりと均衡するバランスを取っていて、大炎上とはならなそうに見える

その2極とは、ザックリいえば「店の対応が悪い」というのと「乙武さんの対応が悪い」という2極だ。ここで私が意見したところで情勢に変化はないだろうが、件のニュースに見える"甘え"について記しておく。

自分としては、このニュースを知った時に

「乙武さん、甘えちゃったなぁ。」

という感想を持った。そう思ったのは、お店の場所が「銀座」だったからだ。

「銀座」という街は名実共に一等地であるのだが、とにかく「強者」の街だという事を強く感じる。名声や財力など、諸々を持て余すくらいでないと銀座と言う街には受け入れてもらえない。それらが無いのなら、企業の名声を借りるか、組織の財力に頼るかしなければならない。乙武さんは、名声も財力も申し分無いだろうが、四肢が足りなかったということだ。

銀座をベビーカーを押して歩いた事があるが、とにかく優しくない。店舗によってはそりゃベビーカーや車椅子に配慮されてはいるが、そこで活動する人も含めて街全体が「弱者」に優しくはしてくれない。

ベビーカーや車椅子が「弱者」か?という問いもあるだろうが、銀座に来れば否応無しに「弱者」である事を知らされる。晴海通り、中央通り沿いの店舗ならまだマシだが、一歩路地を入るとほとんどの店は文字通り敷居が高く、無意味な段差がついていたり、間口が狭かったり、自動ドアでなかったり、とかく「弱者お断り」という佇まいだ。

こういう街は銀座に限らない、自分が知っている中でも「秋葉原」「お茶の水」「神田」「神保町」あたりの街は、ベビーカーや車椅子には全く配慮されていない。他にも東京にはそういう街が多い。

乙武さんは、銀座がそういう街だと知らなかったのだろうか。渋谷、新宿、池袋あたりと同じ様に受け入れられると思ったのだろうか。乙武さんが秋葉原のPCパーツ屋や神保町の古本屋で同様の対応をされたとして、それを同じ様にTweetしたら、世間の反応もだいぶ変わってくるだろう。

乙武さんをよく知っているわけではないので憶測になるが、乙武さんは秋葉原の「PCパーツ屋」や神保町の「古本屋」などには、はじめから行かないのではないだろうか。だって、想像すれば不便を強いられるのは分り切っているから。つまり自分の方から出向くのを回避する場所というのはある様に思う。

乙武さんは、まさか"日本随一"のハイセンスでハイクオリティな「銀座」で、そんな不便を体験するとは思わなかったのかもしれない。「銀座」はハイセンスでハイクオリティだが、弱者に配慮された街ではない。

しかし、乙武さんがそういった体験をTweetで返してしまったのはガッカリした。乙武さんが自分のTwitterアカウントの影響力を知らないわけがない。知っていて、店舗名を名指しで糾弾してしまった。それはあぶく銭に物言わす成金同様、自分のネームバリューやブランドに物言わす態度だろう。乙武さんであっても銀座のお店に一矢報いるには、手近な"影響力"を利用する甘えた手段しか無かったということだ。

銀座の街は、そういった弱い成り上がりを受け入れない。表面は取り繕っていても、街が持つ"心意気"は変わらない。その件の店も即座に慇懃無礼とも取れる返答を返した。実に銀座のお店らしい対応だ。車椅子を排除した経営をしていても、銀座の一等地のお店ならむしろ当たり前で、そこに集う人々は問題視はしない。多少荒れたとしても、その他の対応もきっとスマートにするだろう。

「強者」の街である銀座において、彼の主張は「ウザい身障者」の意見でしかない。銀座で特別扱いされたいなら、金を持っているだけでは足りない。金と金に換えられないある種の強味がなければ自由には振る舞えない。逆に、絶大な強味を持っていれば、四肢が欠損していなくてもお店まで担ぎ上げてくれるだろう。銀座にある店は、そういった非現実的な経験を持つ店が多い。

そのような街に対して、乙武さんは一石投じたのだとしても、銀座を丸ごと変えるのは難しいだろう。古い歴史を持つ山の手東部の都市は、渋谷、新宿、池袋など新興である西部の都市に比べて頑固だ。それぞれの街に培った歴史があり、文化がある。

身障者である彼が住みやすい街を望めば、多少なりとも文化の破壊を伴うだろう。バリヤフリーを施せない文化など壊して構わない。とまでは言わないだろうが、彼が今回の様に方々で横車を押す様なことになれば、そういった問題点も浮かび上がってくることになる。
このタイトルの本は読んだ事無いんだけど、今度読んでみようと思う。

語りたいのは、丸亀製麺事件?を見て思った事。取り留めないが、記しておく。

2回に渡り散々バカだアホだと石川 和洋さんを罵ってきた訳だが、検索かけたら案の定2chにスレが立っていた。

「丸亀製麺クレーマー石川和洋特定スレ」という、まぁ冗談にしてもキツいスレタイトルだが、幸い書き込みの流れは「丸亀製麺に否がある」という論調で、しばらくは世論が急激に転換する事はなさそうだ。

しかし、これは偶々だ。偶々スレッドの流れが丸亀叩きに傾いているだけで、ほんの少しのバランスの変化で個人吊るし上げに一気に傾くこともあり得る。今現在でも、充分にその可能性はあり予断を許さない状況だ。

Facebook上で何かを糾弾すれば、このような流れになるのは火を見るより明らかだ。しかし、石川 和洋さんにそこまで見えていたのかどうかは疑わしい。それが証拠に、件の書き込みに対する閲覧権限を変更した様だ。多分、見ず知らずのアカウントから多数のメッセージやメールが入っているのだろう。

石川 和洋さんをこのブログ上でヤクザ呼ばわりまでしてしまったが、多分ご本人は至って普通の一般市民だろうと思う。自分の持つ良識の範囲で、正しいと思う行動をとったにすぎないのだろう。その行動に罪が問えるかと言えば、問えるものではない。

ご本人も、ネット上の支持数が多いので、自分の行動について「誤り」であったとは思わないだろう。しかし、不安にさせられる事も含め、カビっぽいうどんを食わされた以上の被害を受けているのではないだろうか?それは「正義」を成した代償として見合っているものだろうか。

ネットに限らず人が集まるところでは「善か悪か」ということはあまり重要視されない。集団を構成するひとり一人の意見を聞けば、それなりに"善・悪"の分別はあっても、それがそのまま集団の「正義」に反映されるわけではない。

"正義の反対は「また別の正義」なんだ"

という、多くの人に感銘を与えたセリフがあるが「集団」、人の集まりにとっては「正義」なんてものは無いと思った方が良い。集団にあるのは枠と方向と勢いだけだ。だから、支持意見が多いから「正義」である。という勘違いはしない方が良い。

特にネット上の支持数など本当にアテにならない。江南スタイルのyoutube再生数のはじめ、インターネット上では数字のトリックを仕掛けやすい。2極のバランスに、想定より大きな偏りがある様なら、その結果を疑ってかかるべきだ。

勢いがある時は、ある一方向に大きく傾くが、勢いが衰えれば逆方向の意見が増長してくる。そんな潮の満ち引きの様に揺れ動く志向が「正義」でなどあるはずがないではないか。

では、世の中に正義は無いのか?と言えば正義はある。自分自身の中に正義はあるだろう。それもまた確固たる正義であるとは言い難いが、ネット上の支持数に惑わされた「正義」を信じるよりはマシだ。

正義は己で創造し、試し、培っていくしかないものだろう。