ジャン=ポール・サルトルの実存主義にみる、3月11日以降の日本国民の展望と考察。
【ジャン=ポール・サルトルの実存主義にみる、3月11日以降の日本国民の展望と考察】
文:原始力哲学者 ジャン=ポール・ハヤトル
マルクス主義を包摂し、左派であったとはいえ、弁証法的理性批判によって、マルクス主義の理論と実践を分離し、あわない現実を切り捨てていった結果、実践を無原則な経験主義に変え、理論を純粋で凝結した知に変えてしまった。
私は、このことに感銘を覚える。
ソ連の立場を概ね擁護しながらも、ソ連派の共産党には加入せず、アルジェリア戦争ではフランスからの独立を目指す民族解放戦線を支持し、また、チェゲバラのキューバ革命を支持した。
ソ連のハンガリー侵攻、チェコスロバキア侵攻について批判の声を上げ、左派陣営内にいながら、学生運動や反スターリン主義を支持した。
つまり、左派に完全なる自由でもって概念化し直したのだ。
サルトル曰く、
実存は本質に先立つ
即自と対自の対概念は、
aはaであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においてはaはaであったとしか、いわれない。
つまり、対自は仮に存在といわれたとしても、それは自身は無である。
すなわち、人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。
人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない。
他人 については、地獄と言っている。
それは自ら選択したわけではないくとも、気づいた時には既に、常に状況に拘束されており、他人に見られるということは、私を一つの存在として凝固させ、対自から即自存在に変じさせる。
死においては、
既に賭けはなされたのであって、もはや切り札は残されていない。私を対自から即自存在へと永久に変じさせるものであり、私の実存の永遠の他有化であり、回復不能の疎外であると定義している。
「弁証法的理性批判」
歴史の「能動的原動力」=実践的惰性態(=生産物、生産様式、政治制度、機構等)
これは、人間によって形成されたものであるが、諸個人の主体的実践を疎外し、客体化、固定化する社会的、歴史的事実である。
それら分野に埋没し、受動的に支配される人間は、真の活動性を持たない集合態に過ぎないが、共通の目標を目指す集団を形成し、「共同の実践」を作り出すことによって、真の活動性を取り戻す。
私達日本人は、そう、実存する時が来たのだ。
私達ひとりひとりの主体性をよりリアルに体現していくのだ。
私が評される機会があるとすれば、個人的には、形容的表現を用いられることなく、「隼人は隼人だった」と云われるよう、何処までもオリジナルで、言い逃れの出来ないほど私であり、屈強な意志でもって人生を発熱させていきたい。
政府や東電とは実践的惰性態であり、それは個人の集団であることには揺るぎないものの、真の主体的実践とは言えない。
しかしながら、金銭と権力を欲する社会の上層にいる者達のそれも実存である。しかしながら、下の者がそれを共有していない。
日本では従来の古い美徳観念が、近代的工業社会の原理と混ざり合った。連帯意識一般や領主に対する忠誠は、今日では企業に捧げられている。しかし、これはこの先、いや今現在、軋轢と葛藤を生んでいる。この二つは、本来相容れないもの。
人間は自由という刑に処せられている。
そう説くサルトルの言葉に溺れる…。
定められた命運の中で、私達は無限に自由なのだ。
日本人の多くが実践的惰性態に対して、いかに無関心で無知であったかは、今回の原発事故でより輪郭が浮き彫りになったことだろう。
そして、それでは尊い命が脅かされ、私達本来の幸福とは程遠いことも。
個人がそれぞれ学び、個性を余すことなく発揮していくことで、政府などに惑わされたり、怯えなくなるだろう。
そして、そう屈強になった諸個人が、慈しみと思いやりを持って寄り添い、時に対峙し、共通の目標に進行する。そして、共同の実践が確保されるのだ。
それは勿論自分の為でもあるが、その大意は子孫の為にある。
このような事態になった一因には、言うべきこと言わず飽食•大量生産を謳歌した「戦後以降」の私達も含まれている。
政府や東電が悪い。
それも自分達が選んだ政治家であり、電力会社だ。
鬼畜のように権力に溺れ、国民と未来を踏み滲る政策に対して、行動を起こさなかった私達が原因でもある。
だがしかし、私たちは社会の不公正や惨状を解決する義務を負っているだけでなく、さらに人生に喜びを創造する能力も備えていることを忘れてはならない。
未来の為に…。
今、声をあげ行動をする。
いいかい、もう一度言うよ!
俺達は負けない!!!!!
文:原始力哲学者 ジャン=ポール・ハヤトル
マルクス主義を包摂し、左派であったとはいえ、弁証法的理性批判によって、マルクス主義の理論と実践を分離し、あわない現実を切り捨てていった結果、実践を無原則な経験主義に変え、理論を純粋で凝結した知に変えてしまった。
私は、このことに感銘を覚える。
ソ連の立場を概ね擁護しながらも、ソ連派の共産党には加入せず、アルジェリア戦争ではフランスからの独立を目指す民族解放戦線を支持し、また、チェゲバラのキューバ革命を支持した。
ソ連のハンガリー侵攻、チェコスロバキア侵攻について批判の声を上げ、左派陣営内にいながら、学生運動や反スターリン主義を支持した。
つまり、左派に完全なる自由でもって概念化し直したのだ。
サルトル曰く、
実存は本質に先立つ
即自と対自の対概念は、
aはaであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においてはaはaであったとしか、いわれない。
つまり、対自は仮に存在といわれたとしても、それは自身は無である。
すなわち、人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。
人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない。
他人 については、地獄と言っている。
それは自ら選択したわけではないくとも、気づいた時には既に、常に状況に拘束されており、他人に見られるということは、私を一つの存在として凝固させ、対自から即自存在に変じさせる。
死においては、
既に賭けはなされたのであって、もはや切り札は残されていない。私を対自から即自存在へと永久に変じさせるものであり、私の実存の永遠の他有化であり、回復不能の疎外であると定義している。
「弁証法的理性批判」
歴史の「能動的原動力」=実践的惰性態(=生産物、生産様式、政治制度、機構等)
これは、人間によって形成されたものであるが、諸個人の主体的実践を疎外し、客体化、固定化する社会的、歴史的事実である。
それら分野に埋没し、受動的に支配される人間は、真の活動性を持たない集合態に過ぎないが、共通の目標を目指す集団を形成し、「共同の実践」を作り出すことによって、真の活動性を取り戻す。
私達日本人は、そう、実存する時が来たのだ。
私達ひとりひとりの主体性をよりリアルに体現していくのだ。
私が評される機会があるとすれば、個人的には、形容的表現を用いられることなく、「隼人は隼人だった」と云われるよう、何処までもオリジナルで、言い逃れの出来ないほど私であり、屈強な意志でもって人生を発熱させていきたい。
政府や東電とは実践的惰性態であり、それは個人の集団であることには揺るぎないものの、真の主体的実践とは言えない。
しかしながら、金銭と権力を欲する社会の上層にいる者達のそれも実存である。しかしながら、下の者がそれを共有していない。
日本では従来の古い美徳観念が、近代的工業社会の原理と混ざり合った。連帯意識一般や領主に対する忠誠は、今日では企業に捧げられている。しかし、これはこの先、いや今現在、軋轢と葛藤を生んでいる。この二つは、本来相容れないもの。
人間は自由という刑に処せられている。
そう説くサルトルの言葉に溺れる…。
定められた命運の中で、私達は無限に自由なのだ。
日本人の多くが実践的惰性態に対して、いかに無関心で無知であったかは、今回の原発事故でより輪郭が浮き彫りになったことだろう。
そして、それでは尊い命が脅かされ、私達本来の幸福とは程遠いことも。
個人がそれぞれ学び、個性を余すことなく発揮していくことで、政府などに惑わされたり、怯えなくなるだろう。
そして、そう屈強になった諸個人が、慈しみと思いやりを持って寄り添い、時に対峙し、共通の目標に進行する。そして、共同の実践が確保されるのだ。
それは勿論自分の為でもあるが、その大意は子孫の為にある。
このような事態になった一因には、言うべきこと言わず飽食•大量生産を謳歌した「戦後以降」の私達も含まれている。
政府や東電が悪い。
それも自分達が選んだ政治家であり、電力会社だ。
鬼畜のように権力に溺れ、国民と未来を踏み滲る政策に対して、行動を起こさなかった私達が原因でもある。
だがしかし、私たちは社会の不公正や惨状を解決する義務を負っているだけでなく、さらに人生に喜びを創造する能力も備えていることを忘れてはならない。
未来の為に…。
今、声をあげ行動をする。
いいかい、もう一度言うよ!
俺達は負けない!!!!!