今回からタイトルを変えた・・中身が変わるわけではなく「闘病日記」という言葉が気に入らなかっただけだ。「闘病」なんておこがましい・・・今は普通の生活とあまり変わらないし、もし病状が悪くなっても「闘う」つもりは毛頭ない。
さて改めて「死」について自分の考えを整理しておこう。「死生観」というのは辞書によれば「生きることと死ぬことについて、判断や行為の基盤となる考え方。生と死に対する見方」とある。
先ごろ105歳で亡くなった日野原医師は「望ましい生き方と人生の終え方」について提言し「死とは生き方の最後の挑戦」と言っている。彼ほどに立派な生き方や死に方はできないだろうけど共感を持てる。
前にも書いたが医師から「ステージ4の肺腺がん」を宣告されたとき、不思議に「死に対する不安・恐怖」や「死にたくない気持ち」は一切湧き上がらなかった。これまで「ステージ4=末期=手遅れ」と言われ、5年と持たないとされていることは知っていた。しかし一方で医学の進歩により余命が確定したとは言えなくなっていることも知っていた。医師は余命を宣告しなかったし、私も余命を尋ねることはしなかった。聞いても意味ない(世の中でもそう言われ始めている)と思ったからだ。
ステージ4と聞かされ「最悪1年以内の死」を覚悟すべきで、「5年以上生きる確率はわずか」であるという認識はすぐにできたが、一向に「不安」は訪れなかった。
医師は余命を言わないものの、深刻さの程度を伝えてきた。「子供たちは近くに住んでいるのか?」「子供たちにはすぐに説明するほうがよい」・・と。能天気な反応をする私に対して医師はいぶかっていた。
それから2か月半、検査入院・治療開始入院・肺炎による再入院を繰り返して、今は半月ごとの通院という生活だが、依然として「不安」は湧いてこない。もちろん強がっているわけでもない。もちろん死に際に至って「死にたくない」とわめくかもしれないが、それはどうでもいいことで「今どう思うか」が重要だと思う。
さて改めて「死」について自分の考えを整理しておこう。「死生観」というのは辞書によれば「生きることと死ぬことについて、判断や行為の基盤となる考え方。生と死に対する見方」とある。
先ごろ105歳で亡くなった日野原医師は「望ましい生き方と人生の終え方」について提言し「死とは生き方の最後の挑戦」と言っている。彼ほどに立派な生き方や死に方はできないだろうけど共感を持てる。
前にも書いたが医師から「ステージ4の肺腺がん」を宣告されたとき、不思議に「死に対する不安・恐怖」や「死にたくない気持ち」は一切湧き上がらなかった。これまで「ステージ4=末期=手遅れ」と言われ、5年と持たないとされていることは知っていた。しかし一方で医学の進歩により余命が確定したとは言えなくなっていることも知っていた。医師は余命を宣告しなかったし、私も余命を尋ねることはしなかった。聞いても意味ない(世の中でもそう言われ始めている)と思ったからだ。
ステージ4と聞かされ「最悪1年以内の死」を覚悟すべきで、「5年以上生きる確率はわずか」であるという認識はすぐにできたが、一向に「不安」は訪れなかった。
医師は余命を言わないものの、深刻さの程度を伝えてきた。「子供たちは近くに住んでいるのか?」「子供たちにはすぐに説明するほうがよい」・・と。能天気な反応をする私に対して医師はいぶかっていた。
それから2か月半、検査入院・治療開始入院・肺炎による再入院を繰り返して、今は半月ごとの通院という生活だが、依然として「不安」は湧いてこない。もちろん強がっているわけでもない。もちろん死に際に至って「死にたくない」とわめくかもしれないが、それはどうでもいいことで「今どう思うか」が重要だと思う。