最近のブログで藤田晋は「世襲」について書いている。長男大門の誕生を祝う人から「後継ぎができてよかったですね」と言われたことを紹介している。

これに対して藤田は「上場企業は社会の公器だからそんなことはありえない」「創業者の息子が父親が経営する会社で働くことは難しい」と言う。そして社員が自分の子供を自分の会社に入れたいと思うことには肯定的に・・・むしろそうありたいと思っていることを書いている。

これは藤田の「真面目な側面」を示しているが、彼がまだこの問題を深くは考えていないということを意味している。おそらく世の中の「世襲否定論」を気にしているだけだ。

世襲を完全否定してしまうと、あの「大トヨタ」を否定してしまうことになる。また創業者が自分の子供を後継者にしたい場合、ほかの企業に就職させて訓練するという方法もあるので、「後継ぎ=自社に就職」とは限らない。また大門が成人して(おそらくまだ藤田晋はバリバリの実業家)、「会社を作りたい」と言ってきたらどうするのだろう。本人が老年を迎える頃、時代の変遷が逆転現象を呼び、子供が親の会社を買収するかもしれない・・・それは本望なのではなかろうか。会社の存続にかかわる大問題が発生して、世襲するほうが社員や株主のためになるということだってないとは言えない。

さて一方の砂村新左衛門はどうだ。当時の「家」の考え方からすれば、世襲は当たり前だった。新左衛門の子孫は代々「名主」職を世襲した。新左衛門が新田を開拓した大きな動機は、カッコよく言えば「仏道に入りたい=成仏したい」ということだが、本音としては「子孫に継がせたい=子孫の繁栄を祈る」ということだろう。

しかし「三代目が潰す」の倣いよく、砂村家は数代で没落の憂き目に遭ったのである。まあ典型的な世襲の失敗例と言えるだろう。しかしながら先のトヨタの例にもあるように世襲で成功、継続している例は山ほどある。

新左衛門の場合「子孫が天災に襲われ続けた」という不運もあるが、子孫が経営に失敗したのも確かである。代々世襲する場合に経営に才能のある後継ぎを生み、育てるのは難しい。しかし経営のシステムを作っておけばよいのだ。経営をサポートする、時にはお家のために経営を主導する人間を配置すればいいのだ。砂村家の場合は、番頭も手代も世襲だった(一番、二番の家来の家が年寄・百姓代を務めた)。村方三役と呼ばれた村役人が全員世襲では、効率的な経営あるいは経営改革は難しかったろう。

成功した人間の子育てはそういう意味では難しい。凡人でよかった?