これまで12回にわたって砂村新左衛門と藤田晋の比較論を展開してきたが、途中から読んでいる人は「砂村新左衛門って誰?」と思ってしまうだろう。

全部の記事を読んでいればわかることだが、ちょうど比較論のネタも切れてきたので、ここで砂村新左衛門の生涯を振り返っておくことにする。

砂村新左衛門は越前国今立郡新村(福井県鯖江市新町)もしくは水落村(鯖江市水落町)において江戸幕府始まりの頃生まれた(推定1601年生まれ)。新左衛門の家は新村を開拓して名主(庄屋)となった福岡新兵衛家の分家で、新左衛門は初代新兵衛の甥、すなわち二代目新左衛門であったと推定される。

いつの頃か水落で農業ではない事業を始めたと思われるが詳細はわからない。その後新左衛門は九頭竜川河口の湊町三国(福井県坂井市)に進出した。(福井藩の治水工事などを行う)土木業に携わっていたらしい。やはり具体的な事業内容は不明であるが、藩主の松平忠昌から支援を受けていたとされる記録があり、河川の氾濫に悩んでいた福井藩の再建に貢献したというのが推理根拠である。砂村の姓も忠昌から授かったのではないかと推定される。

三国ではそこそこの成功をおさめ、妾を作って息子もできていたが、本妻には子供はできなかったようだ。本妻に子供がいないから妾を作ったのかもしれない。新左衛門はこの成功に飽き足らず全国に出かけて新田開拓を目論んでいた。藩主の支援は新田開拓のための資金援助であった。

藩主忠昌の病死の後、三国の川岸で築地(木場町と呼ばれ番所や役人住居用地・・砂村屋敷と呼ばれた)したのち、弟らを連れて大坂に進出した。三国の事業は妾の子に任せた。もうこの頃には50歳前後になっていた。大坂では海運業にも携わっていたが、時を同じくして曽根崎村近くの川岸を開拓して新田とした。ここは弟の三郎兵衛に任せて、新左衛門はほかの弟たちを連れて関東に進出した。

新左衛門は相模国三浦郡(神奈川県横須賀市)の内川入海を開拓することを本命と考えていたが、思わぬこと(明暦の大火)をきっかけに武蔵国葛飾郡宝六島(東京都江東区)の洲の開拓権を得ることになった。こうして三浦新田(後の内川新田)と宝六島新畑(後の砂村新田)の開拓を並行して進め、万治年間(1660年代初頭)には形式的な開発を完了させた(検地を受けた)。また吉田勘兵衛が推進した武蔵国久良岐郡(横浜市)の野毛新田(後の吉田新田)の開拓においても技術を担当した。

しかしまだ開拓地の治水が十分安定していなかった寛文7年(1667年)12月14日、新左衛門は将来を新三郎・新四郎(おそらく弟の孫らを養子にした)に託して、江戸近郊で没し浅草善照寺に葬られた。2016年は350回忌に当たる。

新左衛門の詳細は当方HPで! http://www2.bbweb-arena.com/iaponia/index.htm