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砂村新左衛門は子孫の安楽と水門樋の安全を祈る石碑を建てた寛文七年の十二月十五日に亡くなった。
当時江戸(砂村新田)に住んでいた新左衛門は浅草新堀端の善照寺に葬られた。大正年間にこの寺に新左衛門の墓碑があることが確認されている。
写真の墓碑は砂村家墓地にあったもので、戦前に内川新田の海側のかなりの地域が海軍に接収された際、墓碑が正業寺の墓地に移されたものである。このとき新三郎家・善六家の墓碑や六地蔵などが移されている。江戸時代の新三郎家・善六家は浄土真宗(一向宗)で野比の最光寺の檀家であった。村の寺である正業寺(浄土宗)の檀家の役割も果たしていたが、宗旨はあくまで浄土真宗であった。
なお新四郎家は浄土宗であったので墓碑は元々正業寺にあった。新四郎家は絶えて、新三郎家は善六家に引き継がれていたが、明治に入って善六家が宗旨替えして正業寺だけの檀家になったので、近代の善六家墓碑はここにある。最近まで続いていた砂村善六家の新しい墓碑を挟んで、新左衛門と新三郎の墓碑が並んで保存されている。
「善照寺の墓を久里浜に移した」という説もあるが私は否定的である。今正業寺に残る墓碑は江戸時代後期の様式であり、大正時代には浅草と久里浜のどちらにも墓碑があったからである。私は「正業寺の墓碑はレプリカである」と思っている・・・分骨はあったかもしれないけど・・・。
ちょうど新三郎家・新四郎家が善六家・与兵衛家に継がれたころ、大先祖の墓に参りやすくするため作ったのであろう。