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前回記事の石碑の後方に写っているのが今の夫婦橋です。今回掲載したのは明治時代の夫婦橋のスケッチです(スケッチと言っても、当時の陸軍参謀本部が地図を作るために測量した際に描いたもので由緒正しい?絵である)。絵の通り、このころ石碑は二つの橋の間の中の島の上流側にあった。

今の夫婦橋は国道134号線が平作川沿いに南東に下って直角に右折するところ、そこを反対に浦賀方面へ左折したところに架かっている。しかしこれは戦前に海軍が久里浜にやってきたとき作られた場所であって、元の夫婦橋は数10m上流の今の人道橋付近にあった。このころもやはり浦賀方面への道と、野比方面への道の交差する場所だった。今の黒船仲通商店街はそのころの主要道だ(往還道と呼び、往還の橋と呼ばれた)。

ずっと以前は夫婦橋ではなく内川橋とか往還の橋と呼ばれたらしい。なぜ夫婦橋かと言うと、絵に描かれている通り、二つの橋で成り立っていたからだ。あまり広い河口では橋の強度が持たないので、中の島を利用して二つの橋を架け、そこに水門樋を設けたようである。この絵では水門樋の様子はよくわからない・・このころはすでに撤去されていたのか?

新左衛門はこの水門樋とその延長線上の土手(堤防)を作ることで、上流側(内川の入海)を干拓し、下流側(八幡原)に大水がいかないようにして、新田を作った。だから内川新田はこの夫婦橋を接点として二つの地域に分かれている。新左衛門は石碑に「内川入海新田並びに八幡原新畑」と書いている。のちにこれらを合わせて内川砂村新田と呼ばれ、さらに砂村新田と呼ばれて村の名前として定着した。