栗の渋皮煮とアピオス
田舎から栗が送られてきた。姪の夫の実家に栗の木があって、毎年おすそ分け・・。一度に食べるのは大変なので、栗おこわとゆで栗にして残りは例年通り「渋皮煮」を作った。渋皮煮は煮崩れないようにするのが肝心なのだが、今回は早い段階から崩れだしたので、ティーバッグに入れて煮てみた。入れたり出したりで面倒だったけど何とかうまくできた。
これで残った砂糖の濃縮液をどうしようか・・・。そこでこないだ収穫したアピオス(ほどいも)を煮たらどうかと思いついた。アピオスは栗より軽いので浮いてくる・・・だから落し蓋を使ってみたが、これが失敗・・底に集中したアピオスは鍋底の高温で割れてしまったのだ。食べられることは食べられたが、次回はやはりティーバッグ利用かな。
アピオスはスープにしても美味しいので、今夜あたり作ってみよう。
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「名所江戸百景」今昔:「小奈木川五本まつ」
「おなぎがわ」は通常「小名木川」と書く。昔は「仮名」に相当する部分についての表記はまちまちだった。古文書では同じ文書の中でも違う表記が見られることもしばしば・・。小名木川は中川(今の荒川あたり)と隅田川を結ぶ海運(行徳船)のための人工の運河で「まっすぐ一直線」だった・・。だから絵のように曲がっていることはなく、これは広重の脚色だ。五本松と言いながら一本しかない・・支柱が必要なほどの老木で、ほかは枯れてしまっていたからだ。
  
読み解き江戸時代:慶喜の将軍就任、「斜陽の幕府を背負う」
十四代将軍家茂は第二次長州征伐で大坂城に滞在中21歳の若さで急死した。あまりの急死に、毒殺の疑惑が残る。そしてさらにその5ヵ月後孝明天皇崩御・・これもすぐに毒殺の風聞が広がった。家茂と慶喜は十四代将軍の座を争った間・・・本人の意向というより一橋派と南紀派の争いではあったが・・若い家茂に世継はおらず、紆余曲折の末慶喜が十五代将軍に就任した。優秀な人物で軍備増強などに精力的に取り組んだが、倒幕の流れは止められず、就任の翌年には大政奉還・・・結局は徳川幕府の幕引きとなった。
      
街道を行く:日光道中⑭「今市宿~日光」中山道57「垂井宿」
  
三都&町物語:江戸「小梅村」、大坂「玉造」
「小梅」の「梅」には「埋め」が語源との説がある。大坂の梅田と同様だ。
    
日本全国「藩」事情:「館山藩」
南総里見八犬伝で知られる館山城・・・里見氏は二代目の忠義のとき伯耆に転封された(理由は諸説)。倉吉で蟄居した忠義は29歳で亡くなった・・8人の家臣が殉死・・彼らの法名には「賢」の字が入っていて「八賢士」と呼ばれた。曲亭馬琴は彼らをモデルに「八犬士」としたらしい。
 
暮らし大全:「江戸が大揺れ!『安政の大地震』」「実用を兼ねたアート、絵暦」「犬のいる風景」
安政元年(1854年)6月15日伊賀上野地震(M7以上、震度6以上)が発生、11月4日には安政東海地震(M8.4)、翌5日には安政南海地震(M7.4)が続いて西日本に大きな被害をもたらした。そして安政二年には東日本に移った・・・3月に飛騨地震(M6.7)、9月には仙台地震(M7)そして10月2日には安政江戸大地震(M6.9)が江戸を襲った。深川付近の被害が甚大だったらしいが、この辺りは砂地(いわゆる埋立や干拓による新田が都市化したところ)であって、今で言う「液状化現象」が起きていたのではなかろうか。
  
偉人・奇人列伝:「西周」
「哲学」「主観」という訳語を作ったのは西周だって・・。慶喜のブレーンとなったが、彼が本領発揮するのは明治になってからだった。