「ネトウヨ」がお台場でデモ?
今日はじめて知った「ネトウヨ」の意味・・・「ネット右翼」=「インターネット上で保守的・右翼的・排外主義的言動をする人物」だって・・・。
今回の騒動は高岡蒼甫というタレント(これまた知らない)が自らのツィッターでフジテレビの韓流偏重放送に抗議したことをきっかけに2チャンネルに数百の関連スレッドが立って、ネトウヨたちがデモに立ち上がったということらしい。今回はデモの許可が得られなかったということで練習(お散歩)ということらしいが、数百人以上(主催者発表2,500人)が行進したそうで、21日に本番を計画しているのだそうな。もちろんテレビは放映しないので、ユーストリームなどの生中継を見たのはネット視聴者のみだ(私は小さな新聞記事で見た)。
なぜこんなものに着目したかというと「テレビを堂々と批判する」ことに喝采したいからだ。今日本はテレビ独裁国家のような状態になっている。テレビやマスコミを批判できるメディアが必要だ。中国と同様に日本でもネットが新聞やテレビに代わる役割を果たすようになるのかもしれない。
私は右翼でも反韓でもないので、今回の騒動自体にはあまり興味はない。フジテレビが韓流偏重なのかどうかも知らない(どうでもいい)。我が家は結構バラエティも見るのだが、そう言えば昔に比べて最近フジテレビを見ることが少なくなった。韓流が多くなったせいかな・・韓流だからというわけではなく見ててもつまらないので。
今日はじめて知った「ネトウヨ」の意味・・・「ネット右翼」=「インターネット上で保守的・右翼的・排外主義的言動をする人物」だって・・・。
今回の騒動は高岡蒼甫というタレント(これまた知らない)が自らのツィッターでフジテレビの韓流偏重放送に抗議したことをきっかけに2チャンネルに数百の関連スレッドが立って、ネトウヨたちがデモに立ち上がったということらしい。今回はデモの許可が得られなかったということで練習(お散歩)ということらしいが、数百人以上(主催者発表2,500人)が行進したそうで、21日に本番を計画しているのだそうな。もちろんテレビは放映しないので、ユーストリームなどの生中継を見たのはネット視聴者のみだ(私は小さな新聞記事で見た)。
なぜこんなものに着目したかというと「テレビを堂々と批判する」ことに喝采したいからだ。今日本はテレビ独裁国家のような状態になっている。テレビやマスコミを批判できるメディアが必要だ。中国と同様に日本でもネットが新聞やテレビに代わる役割を果たすようになるのかもしれない。
私は右翼でも反韓でもないので、今回の騒動自体にはあまり興味はない。フジテレビが韓流偏重なのかどうかも知らない(どうでもいい)。我が家は結構バラエティも見るのだが、そう言えば昔に比べて最近フジテレビを見ることが少なくなった。韓流が多くなったせいかな・・韓流だからというわけではなく見ててもつまらないので。

「名所江戸百景」今昔:「浅草金龍山」
金龍山は浅草寺の号・・・雷門の大提灯の下から仁王門と五重塔の雪景色を眺める。「五重塔は左側だろう」・・・そう、五重塔は戦後に移築された。提灯に今では「雷門」と書いてあるが、当時はこの絵のように・・と言っても下半分しか見えない・・・「志ん橋」と書いてあった・・今は本堂にある。
読み解き江戸時代:咸臨丸の太平洋横断、「日本のサムライ、アメリカを知る」
日本人による初の太平洋横断で知られる咸臨丸。しかし実態は同乗したアメリカ人たちが太平洋の荒波を乗り切ったのだ。勝海舟は「日本人だけで大丈夫だ」と同乗に反対したが、勝を始め日本人の乗組員は生まれて初めての外洋の荒波に驚き、なすすべもなく、船酔いに苦しんだ。勝は航海中船室から出てくることはほとんどなかったばかりか、「これから江戸に帰るから小船を下ろせ」などと言い出し周りを呆れさせた。帰りは穏やかだったこと、日本人も学習したこともあって、アメリカ人たちの手をあまり借りることなく太平洋横断に成功した。
しっかりしていたのはアメリカ海軍大尉ジョン・M・ブルックと通訳ジョン万次郎、正直に非力を認めアメリカの協力を仰いだ軍艦奉行木村喜毅だ。中島三郎助が病弱でなかったらまた面白い状況になったかもしれない・・。
街道を行く:日光道中⑤「粕壁宿~幸手宿」、中山道40「野尻宿」41「三留野宿」
三都&町物語:江戸「呉服町」、豊後「府内」
日本全国「藩」事情:「丸亀藩」
暮らし大全:「『からくり』は科学技術の最高峰」「ヒーローになった曾我兄弟」「生活の知恵が生んだ『こぎん』」
太平の世と鎖国によって遅れてしまった工業技術・・・しかし精密工学の分野では特筆すべき技術が育った・・・いわゆる「からくり」だ。からくりの祖は寛文年間(1660年代)に人形芝居興行のためのからくり人形を作った竹田近江・・その後、芝居だけではなく山車に仕込まれるもの、箱を覗いて楽しむ「のぞきからくり」などが全国に広まった。その後多くのからくり師が現れたが、最も有名なのは寛政年間(18世紀末)の「からくり半蔵」こと細川半蔵・・・「機巧図彙」という書を著し、和時計や「茶運び人形」などの設計図を残した。19世紀にはいると「からくり儀右衛門」こと田中久重が活躍する。20歳の頃には天女が空を飛ぶ「雲切り人形」などを完成するが、幕末の動乱の中からくり人形は廃れていった。そこで田中久重が凄かったのは、時代の流れの中でニーズに即した技術を生んでいったことであろう。空気圧を利用して灯心に灯油を送り込み、蝋燭の10倍の明るさで4時間近く点灯する「無尽灯」を発売し、ねじを一度巻くと1年近く動き続ける「万年自鳴鐘」という時計を完成させた。後には佐賀藩で蒸気機関の研究、アームストロング砲の開発に関わった。そして明治維新以降も電話機などの通信機の製造に関わり東芝の前身となる店を銀座に開店した。まさに近代日本先端テクノロジーの祖と言ってよい。
耐久性の乏しい麻でしか着物を作れなかった東北の農民たちが生んだエコな「こぎん」・・こぎんとは小衣(こぎぬ)つまり短い労働着のことで、擦り切れる前に耐久性を持たせるため補強する「刺し子」を施したものが「刺しこぎぬ」→「こぎん」と呼ばれるようになった。後に木綿糸で刺すようになると、美しい洗練されたデザインになっていった。青森の西北の「三縞こぎん」、青森南西部弘前の東西の「東こぎん」「西こぎん」、青森南東部の五戸を中心とする地方の「菱刺し」が有名だ。
偉人・奇人列伝:「斎藤弥九郎」