こないだ地デジアンテナを室内(2階天井下)に取り付けたら日本TVの受信が不安定だったと報告した。
その後改善したので報告しよう。細いケーブルを使っていたので太い低損失(衛星放送受信用)ケーブルに取り替えてみたら若干改善したが状況はあまり変わらなかった。また真北に向けていたのを、東京タワー方向(やや南東側)に向けてみたが有効ではなかった。
最期にアンテナの仰角をゼロ(水平)から数度上向きにしたら、格段に改善した。テレビの受信レベルとして20~40でゆらゆら変動していたものが50前後で安定したのだ。もちろん画像も安定している。
やっぱり海面反射波と直接波との干渉だったのだ。海面反射は効率がよい(海に吸収されない)ので、東京タワー見通しにある我が家には直接波と反射波がほぼ同レベルで届くのだ。反射波の方が伝播路が長いためわずかに遅れて到着する。半波長分ずれて到着すると直接波と反射波が打ち消しあってしまうのだ。この遅れは周波数に依存するので、我が家の場合はちょうど日本テレビの周波数で干渉が強くなったのだろう。
平塚中継局の電波を逗子海岸付近で受信する人のブログにも「わずかに上向きがベストだった」と書いてあった(ya3さんの紹介)。ここも鎌倉や藤沢沖の海上を飛んでくる電波を拾うので我が家と同じようなことになったのだろう。

「名所江戸百景」今昔:「糀町一丁目山王祭ねり込」
隔年6月15日に行われた日枝神社の山王祭・・・将軍上覧に供するため半蔵門から山車が入っていった。
読み解き江戸時代:吠えるご意見番・斉昭、「天下の副将軍としてひと言もの申す!」
水戸藩9代藩主徳川斉昭・・・二代目の光圀と並んで「天下のご意見番」と呼ばれたが、あまりにうるさい?ので裂公とも呼ばれた。光圀に始まる水戸学は天皇を政治的君主ではなく宗教的権威に位置づけ、天皇を崇拝しつつ幕藩体制を維持していくという思想(尊王敬幕)であった。そして外国の脅威が迫ってきた時代・・斉昭は藤田東湖の唱えた尊王攘夷という言葉を使い始める。しかし後になって尊王攘夷という言葉は斉昭の思いに反して「倒幕」のシンボルとなっていく・・。
街道を行く:甲州道中21「金沢宿~上諏訪宿」、中山道31「洗馬宿」
三都&町物語:江戸「広尾」、長州「萩」
文久3年(明治維新の5年前)までは長州藩の中心地(城下町)であった、吉田松陰や高杉晋作などの明治維新を成し遂げた多くの勤王の志士を輩出した。昨年の冬に訪れてみたが、日本海側だというのに雪もあまり積もっておらず温暖な町であった。関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった毛利輝元が隠居させられ、長男の秀就が長州藩主として転封されたとき、(幼少の秀就に代わって輝元によって)萩への築城が決められた。
日本全国「藩」事情:「篠山藩」
デカンショ節で知られる丹波篠山・・デカンショとはデカルト・カント・ショーペンハウエルの3哲人に由来すると聞かされていたが、そのほかに「(丹波杜氏としての)出稼ぎ」「(藩士が飲み明かした)徹今宵(てっこんしょ)」に由来するなど諸説があって定説はないのだそうだ。
暮らし大全:「一世を風靡したモードの革命、京友禅」「洒落本にみる遊里と『通』」「みんな大好き、煎餅」
偉人・奇人列伝:「黒住宗忠」
黒住教の発祥地は我が出身地の岡山だ。そう言えばクラスに黒住さんという人もいたなぁ。ほとんど宗教など関心がなかったけど、私の中高時代はちょうど創価学会が台頭していた時期だった。中学生の私から見ても程度の低い信者が折伏に訪問してきたので「なぜお前らの限定的な仏を信じるのか、太陽でも信仰する方が健全ではないか」と論破?してやった記憶がある。ところが今、黒住教では毎朝太陽を拝む(日拝)と知って、「黒住教の教えの影響を受けていたのか」と思ってしまった。
その後改善したので報告しよう。細いケーブルを使っていたので太い低損失(衛星放送受信用)ケーブルに取り替えてみたら若干改善したが状況はあまり変わらなかった。また真北に向けていたのを、東京タワー方向(やや南東側)に向けてみたが有効ではなかった。
最期にアンテナの仰角をゼロ(水平)から数度上向きにしたら、格段に改善した。テレビの受信レベルとして20~40でゆらゆら変動していたものが50前後で安定したのだ。もちろん画像も安定している。
やっぱり海面反射波と直接波との干渉だったのだ。海面反射は効率がよい(海に吸収されない)ので、東京タワー見通しにある我が家には直接波と反射波がほぼ同レベルで届くのだ。反射波の方が伝播路が長いためわずかに遅れて到着する。半波長分ずれて到着すると直接波と反射波が打ち消しあってしまうのだ。この遅れは周波数に依存するので、我が家の場合はちょうど日本テレビの周波数で干渉が強くなったのだろう。
平塚中継局の電波を逗子海岸付近で受信する人のブログにも「わずかに上向きがベストだった」と書いてあった(ya3さんの紹介)。ここも鎌倉や藤沢沖の海上を飛んでくる電波を拾うので我が家と同じようなことになったのだろう。

「名所江戸百景」今昔:「糀町一丁目山王祭ねり込」
隔年6月15日に行われた日枝神社の山王祭・・・将軍上覧に供するため半蔵門から山車が入っていった。
読み解き江戸時代:吠えるご意見番・斉昭、「天下の副将軍としてひと言もの申す!」
水戸藩9代藩主徳川斉昭・・・二代目の光圀と並んで「天下のご意見番」と呼ばれたが、あまりにうるさい?ので裂公とも呼ばれた。光圀に始まる水戸学は天皇を政治的君主ではなく宗教的権威に位置づけ、天皇を崇拝しつつ幕藩体制を維持していくという思想(尊王敬幕)であった。そして外国の脅威が迫ってきた時代・・斉昭は藤田東湖の唱えた尊王攘夷という言葉を使い始める。しかし後になって尊王攘夷という言葉は斉昭の思いに反して「倒幕」のシンボルとなっていく・・。
街道を行く:甲州道中21「金沢宿~上諏訪宿」、中山道31「洗馬宿」
三都&町物語:江戸「広尾」、長州「萩」
文久3年(明治維新の5年前)までは長州藩の中心地(城下町)であった、吉田松陰や高杉晋作などの明治維新を成し遂げた多くの勤王の志士を輩出した。昨年の冬に訪れてみたが、日本海側だというのに雪もあまり積もっておらず温暖な町であった。関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった毛利輝元が隠居させられ、長男の秀就が長州藩主として転封されたとき、(幼少の秀就に代わって輝元によって)萩への築城が決められた。
日本全国「藩」事情:「篠山藩」
デカンショ節で知られる丹波篠山・・デカンショとはデカルト・カント・ショーペンハウエルの3哲人に由来すると聞かされていたが、そのほかに「(丹波杜氏としての)出稼ぎ」「(藩士が飲み明かした)徹今宵(てっこんしょ)」に由来するなど諸説があって定説はないのだそうだ。
暮らし大全:「一世を風靡したモードの革命、京友禅」「洒落本にみる遊里と『通』」「みんな大好き、煎餅」
偉人・奇人列伝:「黒住宗忠」
黒住教の発祥地は我が出身地の岡山だ。そう言えばクラスに黒住さんという人もいたなぁ。ほとんど宗教など関心がなかったけど、私の中高時代はちょうど創価学会が台頭していた時期だった。中学生の私から見ても程度の低い信者が折伏に訪問してきたので「なぜお前らの限定的な仏を信じるのか、太陽でも信仰する方が健全ではないか」と論破?してやった記憶がある。ところが今、黒住教では毎朝太陽を拝む(日拝)と知って、「黒住教の教えの影響を受けていたのか」と思ってしまった。