最近、仕事に追われていてなかなか書き込めない・・・。
ようやく完了の目処がついてきたので・・。
モロヘイヤを片付けて、その後に「菜花」の種を蒔いている。他のものを植えるのもめんどくさいし、これからできる空地は菜花と二十日大根くらいにしよう。
10月末にはアピオスの収穫と、スナックエンドウの種まき予定だ。
今はハバネロを収穫している。少し採っては細く切って天日乾燥・・の繰り返し。ラー油製造1回分くらいしかないかな・・。
また山芋の「むかご」がだいぶん収穫できるようになった。1本は来月芋を掘ってみよう。
今年の柚子は不作で、4個くらいしか生っていない。
柿は只今順次収穫中・・毎年カラスなどに先に食べられてしまうので、ネットをかけておいた。そうするとネットのない部分にも鳥はやってこない・・ちょっと変わった風景を警戒しているようだ。だけど、食べ切れそうにない・・。

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「名所江戸百景」今昔:「芝うらの風景」
右手に見える石垣は「浜御殿」、今の「浜離宮」、飛んでいるのはユリカモメらしい・・千鳥とも都鳥とも呼ばれた。船の向こうに見えるのは台場・・黒船の来襲に備えたものだ。左の杭は航路を示す、澪標(みおじるし)で「みおつくし」とも呼ばれた。浜離宮のほうにある杭は禁漁区を示す「御留杭」。
 
読み解き江戸時代:心中事件の流行「今生で結ばれぬのなら、来世で・・・・」
堂島新地天満屋の遊女お初と平野屋の手代徳兵衛の心中事件をモデルに近松門左衛門が「曽根崎心中」を書いて、竹本座の人形浄瑠璃が大ヒット・・・この後、心中が大流行した。
その後、幕府は心中を禁止、当初心中を果たした二人は裸でさらし者にされた。陰毛の濃い女への見物人殺到で、「裸」は取りやめに・・。生き残った場合、二人ともならさらし者になった後、非人身分に・・。一人なら死罪・・・ただし主従の心中なら奉公人は死罪で、主人は非人身分となった。
  
街道を行く:行商人の旅、東海道38「岡崎宿」
行商で有名だったのは「近江商人」と「富山の売薬商人」だ。近江商人のトレードマークは天秤棒・・いざと言うときは護身用の武器になった。彼らは各地で商品を売ると共に、各地の産物の情報を得たり商品ニーズを調べたりする、「マーケティング活動の先駆者」であった。「売薬さん」と呼ばれた富山の商人は、5段重ねの柳行李に薬と進物を入れて全国のお得意さんを訪問した。筆と墨を組み合わせた携帯用の筆記用具は護身用にも役立った。
城下町はどこでも道の曲折が多い・・・とりわけ家康の生誕地岡崎は「岡崎二十七曲り」と言われる。「八丁味噌」というのは岡崎のすぐ西の八丁村の特産品だ。家康を始め、三河武士が兵糧として持ち歩いた。

三都&町物語:江戸「馬喰町」、武蔵「大森」
元々は博労町・・・博労とは馬の売買や仲介をする商売人だ。名前が変わっても、江戸で唯一馬の売買が許された。ここには代々関東郡代を務めた伊奈氏の邸(郡代屋敷)があった。寛政4年に改易され関東軍代という職もなくなり、職務を兼任した勘定奉行が住んだが、後に代官管理になって「馬喰町御用屋敷」と改称された。
大森は海苔の名産地で、「浅草海苔」の原点。海に柱を立て、海苔を養殖する技術はここが発祥の地だ。
 
日本全国「藩」事情:「飫肥藩」
「おび」というのは読めなかった、つまり飫肥(今の宮崎県日南市周辺)を知らなかった。「曾我物語」の仇討ち相手工藤祐経の子孫・・6代目の伊東祐持から系譜が続く。歴代藩主にはすべて「祐」の字がある。最近は、口蹄疫で苦労した・・・。

暮らし大全:「お殿様の食事」「江戸の手紙事情」「お稽古事、大流行」
庶民は一汁一菜が普通、家康は一汁三菜を守った。その後、どんどん豪勢になっていった。
10人前作って、一口食べたらすぐ「お替わり」・・手付かずで残ったものは当番たちがいただいた。
当時江戸の「就学率」「識字率」は世界一高かったとされる。武士の場合、身分の高い相手には楷書で、同等なら行書で、下位なら草書で書いたそうな・・書くほうも読むほうも大変だね。配達は今の価格で数百円から千円くらいというから貧乏人には無理だね。
武士や裕福な町人の間で「遊芸」が流行った。特に女の子は「玉の輿」を狙う親の目論見で忙しかった。朝起きて、寺子屋で始業の準備をしてから三味線の師匠の下で朝稽古、家に帰って朝食後寺子屋で手習い、午後2時ごろ帰ったら湯屋に行き、お琴の師匠さんのところへ行く。家に帰ったらお三味線や踊りのおさらい、日が暮れたら琴のおさらい・・と遊ぶ暇が全くなかった。
 
偉人・奇人列伝:「木内石亭」
全国の奇石を求めて旅をした。その数2000種類以上・・「雲根志」という珍しい石の産地や形状を記載した書を残した。鉱物学や考古学の先駆者だった。珍しい石を持ち寄って自慢しあう「弄石」が全国的に流行ったそうな・・・。当時ナンダモンダと呼ばれた【球状閃緑岩】は福井県大野市で産出されたらしいが、コルシカ島でも同様の石が産するので「ナポレオン石」とも言われる。静岡県富士宮市の奇石博物館で展示されている。