すっかり秋らしくなったね・・あっという間に・・・。今年最後の?芝刈りをした。今年は暑すぎて管理が難しく、刈るたびに枯れそうになっていたので、かなり伸ばしたままにしていた。冬に枯れたら、来年のために深く刈るかもしれない。
久里浜行政センターは間もなくエレベータ新設や耐震強化工事が始まる。「集い」行事はしばらくお休みになる。今年の我が「久里浜古文書の会」の展示は、長島六兵衛「御用日記」から「久比里と八幡・内川の内川入江開拓を巡るトラブル」を取り上げた。当時遠国奉行である「浦賀奉行所」と村役人(名主)たちとのやり取りが面白い。ついでに浦賀奉行所の見取り図を作って展示した。名主たちが奉行から呼び出されてお白州で聴取される場面が出てくる・・。

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「名所江戸百景」今昔:「深川木場」
ここに書かれている木場の歴史があいまいなので他の資料から引用しておこう。寛永18年(1641年)に今まで行われていた材木の高積みを禁止して置場として永代島を指定した(後に元木場と言われる)。元禄12年(1699年)永代島の地所を取り上げ、猿江の代地を与えた。元禄14年(1701年)業者は猿江を返上し、旧木場町あたりを払い下げてもらい「木場町」が定着した。埋め立ての進展に伴い海から遠くなったので、昭和44年今の新木場に移転した。旧木場町には木場公園がある(東西線木場駅近く)。
 
読み解き江戸時代:四十七士討ち入り-忠臣蔵・後編-、「狙うは吉良の首、ただひとつ!」
吉良上野介邸は隅田川対岸の回向院のすぐそば、仇討ちを成就した義士たちは回向院で休憩しようとしたが、断られて両国橋東詰めの広場で休憩した。隅田川河口まで南下して永代橋を渡り、旧赤穂藩邸に立ち寄り、泉岳寺に向かった。途中で吉田忠左衛門らを大目付への報告のため派遣した・・幕府に背く積りがないという真意を伝えたかった。泉岳寺に入る前に寺坂吉右衛門に離脱を命じた・・浅野家や浪士の家族らに顛末を知らせるためと伝わる。
吉良上野介がそれほどの悪人だったかと言うと、そうでもないと言う。しかし松の廊下刃傷事件では一方的な処断が庶民の悪評を買ってしまった。当時は生類憐みの令や貨幣改鋳などへの不満が渦巻いていた。そこで幕府は討ち入りに当たっては吉良を悪人に仕立てることで、自らへの世の不満を封じたのだ。事前に隣家の蜂須賀家が幕府に「討ち入りがあったらどう対処すべきか」と尋ねたところ「一切構うな、自邸内を守れ」と指示している。討ち入り後には上杉家(吉良の息子)に対して追っ手を差し向けることを禁じた。そして吉良家当主(養子)吉良義周は「父を守れなかった」として信州高島藩お預けという処分を下されている。江戸の街には「赤穂浪士称賛」と「上杉家揶揄」の落書きが大量に出回った。
  
街道を行く:東海道37「藤川宿」
藤川宿の西には大岡越前守忠相の陣屋跡がある。大岡越前守は江戸の名町奉行として知られるが、後に寺社奉行のときに大名格となり三河国西大平(今の岡崎)の藩主となった。

三都&町物語:江戸「向島」、武蔵野「井の頭」
向島百花園は(亀戸の梅屋敷に対して)新梅屋敷とも呼ばれ、花を愛でながら茶をたしなむ新名所として人気を博した。
鷹狩りに来た将軍家光が「ここの井は一番」としてこぶしの木に「井之頭」と刻んだことから井の頭という地名になった。掘り抜き井戸が普及する江戸後期以前は、ここの水で産湯を使うことは江戸っ子の自慢だった。

日本全国「藩」事情:「弘前藩」
藩主は代々津軽氏・・・津軽という地名は津軽氏に由来するのか・・。昔は「津苅」と書かれていたとか・・。つまり津軽地方を治めた武家が津軽氏を名乗ったらしい。初代藩主津軽為信は京都守護のときに大提灯を作って京都の街を行進して人々を驚かせた。これがねぶたの起源とする説もあるが、もっと古い言い伝えもあるので「ねぶた巨大化」のきっかけと言う風には言えるかも知れない。今のように巨大化したのは近代になってからのことである。

暮らし大全:「江戸の治安を守る町奉行」「神事から始まった、一大イベント『綱引き』」「病気から虫除けまで、おまじない」
有名な町奉行は大岡越前守忠相と遠山金四郎(左衛門尉)景元・・庶民派奉行として人気があった。
奉行の主な部下は与力と同心・・・岡っ引きは非公認協力者で部下ではない。では捕り物のときに御用提灯をかざして犯人を追い込む「捕り手」はいったいどういう身分??
伝統的な綱引き行事は全国各地に伝わっている。秋田県「刈和野の大綱引き」、大阪八坂神社の「綱引神事」、沖縄県那覇の「大綱挽」などなど・・。
当時は十分な医療技術も科学知識もなかったので、困ったことを避けようとするには「おまじない」が頼れるものであった。大体は不可抗力による災いを避けるためのもので、確実な効き目はなかったはずだが、「最善を尽くした」という自己満足にはなったのだろう。今の占いブームにも通じる。

偉人・奇人列伝:「荻野検校」
6歳の頃に失明した検校は鍼師として生計を立てながら学問人励み、22歳の頃から「平曲」(琵琶法師が語っていた平家物語)の修行に専念し、199曲すべてを音節を含めてすべて記憶した。そしてさらに言葉のすべてに楽譜としての記号を付けた。これが「平家正節」である。全曲を通して語ることをなぜか「一部の平家」と言うらしいが、30日間もかかったらしい。