押尾学の裁判員裁判で「遺棄致死ではなく遺棄で実刑」を言い当てた私は、「裁判員になれる」と自画自賛し、テレビでお馬鹿な解説をやっていた連中を軽蔑している(笑)。そして古館や宮根が「裁判員は判断が難しく大変ですねぇ」などと、「裁判員制度否定論に基づく感想」を続けていることに腹を立てている。そんな発言を続けていると「自分が裁判員裁判にかけられることを恐れているのではないか」と視聴者に思われてしまうよ(笑)。
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「名所江戸百景」今昔:「虎の門外あふひ坂」
男二人が裸で提灯を持って歩いているのは寒の夜に寺社に参詣する「寒参り」あるいは「裸参り」をしているところらしい。職人たちが技能向上や安全の祈願をしたらしい。男たちが参った金刀比羅宮には鳥居や百度石が残っているそうな・・。今の葵坂付近には絵に見られる堀も堰もない。
 
読み解き江戸時代:元禄バブル、到来、「材木は万金に値する!」
バブルと言えば、今も昔も「建築ラッシュ」を伴っているね。特に仏寺造営という公共事業の比率が高かった。無駄な公共事業が国の財政を危うくする・・・見掛けの繁栄のすぐ裏に破滅が待っているのも、今と同じだ。そして「両替商」と呼ばれる金融業者が幅を利かせるようになる・・。
そしてバブルは「拝金主義」を育み、豪商(政商)奈良屋茂左衛門や紀伊国屋文左衛門を生んだ。
因みにこの時代の少し前、「金銭よりも家族を大切にしろ・・」と遺訓で説いた砂村新左衛門の子孫は繁栄することなく没落の道を辿っていった。
 
街道を行く:おくのほそ道、東海道35「御油宿」
なぜ芭蕉は東北旅行に出かけたのか。一説によると、幕府が隠密の「河合曾良が芭蕉の弟子であったこと」を利用したとされる。つまり日光東照宮の修復を命ぜられて不満を持っていた仙台藩の調査を行うため、曾良一人ではばれてしまうので著名な芭蕉のお供という形にした・・。たしかにこの長旅にはかなりの旅費がかかるはずだろうから個人では難しそう・・
御油(ごゆ・・名鉄の駅にその名が残る)は飯盛女が多いことでも有名だった。広重の『東海道五十三次』でも、留女(とめおんな)が男客を強引に引き込もうとする様子が描かれている。野次さん喜多さんも通った(狐に化かされたと思い込む騒動を起こした)松並木は今も国の天然記念物として残っている。

三都&町物語:江戸「赤坂」、大和「竜田川」
御油宿の次は赤坂宿だが、これは江戸の赤坂・・。染料としても使われるアカネ(茜)が沢山生えていたので、この辺りが赤根山と呼ばれていたことによるらしい。赤坂見附の見附とは見張り所のことで、赤坂御門のことでもある。
竜田川は昔から紅葉の名所として歌に読まれてきていた。今の竜田川は大和川の支流だが、昔は大和川本流が竜田川だったらしい。在原業平の「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」という歌に因む命名(から揚げの色と韓紅の紅葉の色が似ている)という説があるが・・。

日本全国「藩」事情:「盛岡藩」
南部鉄器や南部せんべいで知られる南部藩・・南部氏は鎌倉時代には陸奥国北部を広く支配していた。幕末には反薩長として秋田藩を攻めるものの新政府軍に圧倒されて降伏・・最後の賊藩と呼ばれて新政府の元では出身者はなかなか出世できなかった・・しかしその反骨精神はのちに原敬などの逸材を生む。

暮らし大全:「びっくり仰天の見世物へようこそ」「邪気を祓う『重陽の節句』」「男のダンディズム、彫り物」
見世物小屋の入場料は大体32文(800円)・・・はしごをする人もいた。江戸の見世物のメッカは浅草奥山と両国広小路・・最初は浅草寺や回向院の開帳の日の「ついでのお楽しみ」だったが、後には参詣の方がついでになってしまった。「曲芸・軽業」「細工見世物」「動物見世物」に大別されるが、曲芸で名をはせた早竹虎吉一座は大坂から江戸に進出し、慶応3年には渡米してニューヨークやサンフランシスコでも興行している。
9月9日は菊の節句とも呼ばれる重陽の節句・・・菊花を愛で、菊酒に酔った。国芳豊国が描いて紹介した「百種接分菊」は、その名の通り1本の台木に100種類以上の菊を接いで咲かせたもので、当時の園芸技術の粋を集めたものだ。
今では温泉などで「刺青お断り」と嫌われていたり、「タトゥー」としてもてはやされたりしている、入れ墨・・。昔の入れ墨は「呪術的」意味合いを持つもので、奈良時代以降は廃れてしまった。それが歴史に登場するのは江戸時代のことだ。お守り代わりの「南無阿弥陀仏」、遊女の愛の誓い「起請彫り」、罪人への刑罰・・当時は刑罰の場合『入墨』、自発的なものを『彫り物』(上方では『がまん』)と呼んだ。

偉人・奇人列伝:「曾我蕭白」
エキセントリックでグロテスクな世界を描く画家・・・曾我蕭白が注目され始めたのは昭和後期になってからだ。伊勢や播州には贋作や疑問作が多く存在する・・伊勢には『伊勢蕭白』と呼ばれる贋作家までいたらしい。