新しい仕事が入ったので、ブログを書く(心の?)余裕がない。「電動自転車と電池」という書庫を作って書く予定だったが、まだできていない。
急に涼しくなってきたね。
最近は押尾裁判に興味が湧いて全記録を追っかけている・・・ミーハーだね。17日の判決を予測すると「保護責任者遺棄」でその中の最高刑に近い実刑か。「遺棄致死」までは立証困難と見ている。しかし本人の証言は裁判員にとっても全く信じがたいものであり、全く反省も感じられないものであろうから、「遺棄で厳しい判決」になるのでは・・・という素人判定だよ。
急に涼しくなってきたね。
最近は押尾裁判に興味が湧いて全記録を追っかけている・・・ミーハーだね。17日の判決を予測すると「保護責任者遺棄」でその中の最高刑に近い実刑か。「遺棄致死」までは立証困難と見ている。しかし本人の証言は裁判員にとっても全く信じがたいものであり、全く反省も感じられないものであろうから、「遺棄で厳しい判決」になるのでは・・・という素人判定だよ。

「名所江戸百景」今昔:「高田姿見のはし俤の橋砂利場」
「おもかげ」のことを「俤」と書くというのははじめて知った。「面影」しか知らなかった。都電荒川線に「面影橋」という駅があって、今でも橋が架かっている。大田道灌ゆかりの「山吹の里」としても知られる。七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき・・・と山吹の花を差し出しながら貧しく「蓑」さえも貸せませんと、道灌に対して若い女が詠んだと言われる。そのとき道灌は掛け言葉に気付かず、自らの教養のなさを知り反省した。
読み解き江戸時代:貨幣改鋳という奇策、「起死回生の一手となるか!?」
どんどん財政が悪化していく幕府。寺社の造営や修築、とりわけ日光東照宮への莫大な投資、そして明暦の大火が追い討ちをかけた。そこで金含有率87%の慶長小判を57%の元禄小判に改鋳することで(ほかにも銀貨も同様に改鋳し)、500万両(7500億円相当)以上の資金を獲得したのだ。これによって不満の声が相次いだが、特に大きなインフレになったわけでもなかった。この辺りは今の北朝鮮とは違うらしい・・しかし、その後場当たり的な改鋳(重さと含有量の変更)が続いたので、財政悪化・経済混乱のサイクルが続いた。
街道を行く:女の旅、東海道34「吉田宿」
改め女は女性には屈辱的、また手形に書かれている髪形や服装でなければ通してもらえない。女人禁制の場所も多かった。
豊川にかかる吉田大橋(豊川橋)・・矢作橋、瀬田橋と並ぶ東海道三大橋の一つだ。吉田は明治になって豊橋に変わった。明治政府が吉田藩ではほかの藩と紛らわしいので藩名変更を命じた結果、三つの候補の内豊橋が採用された。吉田大橋も豊橋(とよばし)となった。
綱吉の生母桂昌院の希望で建立された護国寺、将軍家の武運長久を祈る祈願寺である。7月9日、10日の縁日に参拝すると、4万6千日分の参拝をしたのと同じ功徳(四満六阡日)があると言われる・・・これは効率がいいねぇ。
天橋立は昨年石見銀山に行った帰りに立ち寄ってきたよ。安芸の宮島、陸奥の松島とともに日本三景として初めて紹介したのは林鵞峰、その後貝原益軒が紹介した頃は名勝地として有名になっていた。歌川豊広は日本三景を1枚の浮世絵にまとめて描いた。
こないだ山梨の桃の花を観に行ったとき、武田神社(武田氏館の跡地に立つ)にも行ってきた。武田氏三代の本家はこの武田氏館(城と言うより居館)で、甲府城は徳川家康の命で平岩親吉が着工、浅野氏(長政)の時に完成した。武田氏館には石垣がなく「人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、あだは敵」という名文句の根拠とも言われるが、この時代の城のほとんどに石垣はなかった。
今はオレオレ詐欺が有名だが、当時も巧妙な詐欺師が横行した。豪家から借りた金の香炉を見せて「真鍮製だが買ってくれないか」と持ちかけ、「こいつは金と真鍮の区別が付かないのか、しめしめ」と高額を払わせ、あとでそっくりの真鍮製香炉を渡し、「これは金ではない」と指摘されると、「私は真鍮だと言いましたよ」と言いぬけしたと言う。しかし、当時10両以上の騙りは死罪、文書偽造は獄門など重罪に処せられた。そして江戸の広告は眉唾だらけだった。
刺し身が普及する前は酢で調味した鱠(なます)であった。初期は鱠と刺し身は切り方の違いでしかなかった・・その後、調味料と和えずにあとから調味料をつけて食べるのを刺し身と呼ぶようになった。「切る」という言葉が嫌われて「刺す」という言葉が使われたという説があるらしい。
月見のお供え団子、十三夜には9個、3個、1個を重ね、十五夜には9個、4個、2個を重ねた。陰暦八月の十五夜を「中秋の月」、九月の十三夜を「後の月見」と呼んだ。
池大雅は同時代の与謝蕪村と並ぶ町人出身の職業画家。文人画(南画)と言われる画風を大成し、明治時代の富岡鉄斎、横山大観と続く日本画の伝統の礎を築いた。今私が勉強中の久里浜(八幡)の名主長島六兵衛も三浦では傑出した南画の達人であった。