台風がやってきてようやく猛暑もカラカラ状態も一息ついた。台風は福井に上陸して関東地方を窺っている。砂村新左衛門が越前に生まれ育ち、関東地方で大きな新田開拓の業績を挙げたこととイメージが重なる・・あまり関係ないか(笑)・・ちょっとしたコマーシャルだね。
今年のゴーヤは豊作だったけど、収穫末期になって虫害にやられた。凄い量の蛾と思われる虫の幼虫がかなりの葉を食いつくし、実まで食べられるようになった。100匹以上は潰した。でも、もう収穫はほぼ終ったかもしれないけど・・。
2台目のハイブリッド自転車を購入した。これはまたあとで書くことにしよう。
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「名所江戸百景」今昔:「王子不動之瀧」
王子とは東北本線王子駅付近・・石神井川が今も流れる。この絵のような立派な瀑布は、もう今はない。こんな景勝地がなぜなくなったのだろうか

読み解き江戸時代:儒学支配、「幕藩体制の根幹をなす基本思想」
平和な時代だからこそ必要になる万民のための「指針」が必要だった。綱吉はその中心に「儒学」を据えた。身分制度を絶対視する儒学は、幕藩体制の維持(将軍や幕府の権威を保つこと)にとって非常に好都合だったのだ。
儒学の基本教科書【四書五経】は「論語」「大学」「中庸」「孟子」が四書で、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」が五経だ。
林羅山、貝原益軒、新井白石、室鳩巣らに代表される朱子学派京学派、南村梅軒らに代表される朱子学派南学派、中江藤樹、熊沢蕃山らに代表される陽明学派、山鹿素行、荻生徂徠らに代表される古学派・・多くの学者が生まれ、私塾を開いたり幕府や諸藩に召抱えられたりした。
 
街道を行く:石見銀山街道、東海道33「二川宿」
石見銀山街道は太平洋側尾道から日本海側温泉津に抜ける街道。石見銀山で算出される銀は当初船で運び出されていたが危険を伴うものであったので初代銀山奉行大久保長安がこの陸路を開発したのだ・・。ということは、日本海沿岸に銀を積んで沈んでいる船が沢山ある??
二川宿は戦災に遭わず道路の拡幅もされていないため当時の宿場町の風情を残しているらしい。一度行ってみようかな。

三都&町物語:江戸「麻布」、大坂「四天王寺」
赤穂浪士が切腹したのはここ麻布にあった長門府中藩の毛利家上屋敷だ。
四天王寺は日本最古の官寺(いわば国立のお寺)だそうな・・。蘇我氏に付いて物部氏と戦った厩戸王子(後の聖徳太子)が四天王像を彫って、「戦いに勝利したら像を安置する寺院を建てる」と誓った結果として建立された。寺なのに鳥居がある・・。

日本全国「藩」事情:「秋田藩」
久保田藩とも呼ばれる。宝暦年間には災害が続いて財政が悪化し、藩札を発行するも誰も信用せず、米価の高騰を招いて大混乱した・・いわゆる「秋田騒動」である。なんだか今の北朝鮮にそっくり・・。

暮らし大全:「江戸庶民の生活を支えた行商たち」「江戸の文字デザイン」「町火消の装い」
幕末に江戸に来た外人が「一歩も戸外に出なくても一切の買い物ができる」と驚いた、江戸の行商システム。天秤棒で商品を入れた桶や籠を担いで売るのは「棒手振り(ぼてふり)」・・・。
漢字は元々楷書がもっとも正確に表現されているものだが、速く書ける文字の必要性から一般的には崩し字が用いられた(これが現代人から見て古文書を読みにくくしているのだが)。幕府は公用の崩し字として「御家流」を採用し、これが全国に普及していった。しかし装飾性を重視する世界ではデザインの異なる文字が使われ発展した。相撲番付などに使われる「相撲字」、歌舞伎の題字などに使われる「勘亭流」、寄席の看板に使われる「寄席文字」、そのほか「髭文字」「纏字」などが発展した。
武家に属する大名火消、定火消と違って民間消防組織であった町火消の装束は実用的で簡素だった。当時の消火法は「水をかける」のではなく「風下の家を壊す」というものだったので、建物の構造を熟知している「鳶職人」が最適任者だった。

偉人・奇人列伝:「日本左衛門」
「日本駄右衛門」とも呼ばれた大泥棒・・・浜島庄兵衛がモデルとなって白波五人男が人気を呼んだ。白波とは中国の故事で盗賊のことを意味していて、白波五人男は日本駄右衛門を頭領とし、弁天小僧菊之助、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸と続く、歌舞伎演目の中での盗賊集団である。