イメージ 1
青森ねぶたは仙台七夕と同じ時期(旧暦の7月7日前後)に行われる・・つまりねぶたも七夕行事である。

七夕は五節句のひとつで元々「しちせき」と読むものであり、「たなばた」は当て字である。中国の伝説が日本に伝わり、日本の棚機津女あるいは機織津女(たなばたつめ)の伝説と一緒になったと言われる。あるいはお盆の準備のため精霊棚(たな)とその幡(はた)を安置するのが7日の夕方であることから、「七夕」と書いて「たなばた」と言うようになったという説もある。

一方、「ねぶた」の起源にはさまざまな説があり、今では「眠たし(ねぶたし」が有力であるらしい。また、当初は今のような「巨大な飾り」ではなく、普通の七夕の灯篭流しが変形したものだ。少しずつ巨大化していったが、今のような大きさになったのは最近(戦後)のことである。

さて、誰も唱えていない新説を考えてみよう。「たなばた」から「た」を除くと「なばた」となる。そうすると「なばた」と「ねぶた」は似ていると思わないか? 同じ時期に似たような発音の「七夕」と「ねぶた」・・つまり、「たなばた」が訛って「ねぶた」になった・・というのはどうだろう。

青森ではこのほかに三内丸山遺跡を訪れた。江戸時代から遺跡があることは知られていたが、本格的な発掘調査は戦後になって行われた。縄文時代のものとしては最大級の集落跡で興味深い住居跡や土器などが発見されている。

縄文時代の人はいわゆる「濃い」顔で、弥生時代の人とは異なるらしい。ずっと昔南方系(東アジア)の人がやってきて日本列島を占有していた・・・これが縄文人で、太眉・二重瞼・厚唇の濃い縄文顔だったわけだ。その後、モンゴル方面から北方系に人が九州に上陸し、徐々に列島を占有して行ったのが弥生時代で、細眉・一重瞼・薄唇の弥生顔が主流を占めるようになった。新しい支配者大和民族が蝦夷を征伐する・・という図式の中で、「鬼退治」という風に表現されているのは、その「濃い」顔を「鬼」のように表現したことによるものらしい。

つまり青森辺りは長らく北方系と南方系の境界、あるいは大和民族とアイヌ民族の支配の入り混じる地帯であったのだ。だから青森の地名でアイヌ語に由来するものが残っている。

だから「ねぶた」もひょっとすると「アイヌ語」に起源があるのかもしれないが、これも誰も唱えてはいない。
イメージ 2