東北四大祭のツアーに出かけてきた。結構な強行軍だけど、ある意味密度の濃い楽しい旅行だった。留守の間の畑もまずまず問題なく、採種するために残していた大型ゴーヤ2個も熟していたので、来年用の種はこれで確保できた。

「名所江戸百景」今昔:「真間の紅葉手古那の社継はし」
真間は京成線市川真間の辺り・・万葉の昔から「手古那(てごな)・・手古奈、手児名」という乙女の伝説が伝わる・・・山部赤人「われも見つ 人にも告げむ 勝鹿(かつしか)の真間の手児名が奥津城ところ」。美しい彼女は多くの男からプロポーズされて困惑し、真間の入江に身を投げた・・・もったいない。
読み解き江戸時代:綱吉と側用人、絶大な権力を握る特別職
側用人とは現代ではさしずめ官房長官であろうか。重要閣僚とも言える大老・老中は前政権からがらりと代えたものの、館林藩主であった綱吉に腹心と言える重臣はいなかった。そこで 「側用人」という特別職を創設して、館林藩家老の牧野成貞を起用した。今の首相が官房長官を介して閣僚をコントロールするのと同様に、側用人を通して老中ら幕閣をコントロールした。綱吉が在位中に任命した側用人は13人、その中で最も有名で力を持ったのは柳沢吉保であった。その吉保も綱吉の死後隠居を申し出て第一線を潔く退いた。
街道を行く:脇街道を知る⑤「熊野街道」、東海道29「浜松宿」
熊野三山へ至る信仰の道「熊野街道」・・・熊野へは西回りの「紀伊路」、東回りの「伊勢路」があった。紀伊路の田辺以降は後に「中辺路(なかへじまたはなかへち)」と呼ばれた。田辺から紀伊半島南岸を経由して熊野に向かう道は「大辺路(おおへじ)」、高野山からの道は「小辺路(こへじ)」、吉野山からの道は「大峯奥駆道」と呼ばれ、今ではこれらを総称して熊野古道と言われる。
駿府城に移るまでの17年間、家康は自ら拡張した浜松城を居城とした。家康唯一の敗戦である「三方ケ原の戦い」では、ここに逃げ帰った・・その折、茶店で「小豆餅」を食べていて、武田軍の声に驚き代金を払わずに飛び出したところ、老婆が家康を追いかけて代金を取ったというエピソードが残る。
三都&町物語:江戸「桜田門」、水戸「水戸」
桜田門外の変で知られる江戸城の出入口で、江戸城防御のため外桜田には大名屋敷が集中していた。したがって登城日には多数の大名が一斉に江戸城に向かうため、大名行列を見物する観光客が集まった。登城日は正月、五節句、毎月の定式登城日(1日、15日、28日など)であった。
江戸時代の前には戦国大名佐竹義宣が支配していたが、関ヶ原の戦いのあと秋田に国替えさせられ、奥州の諸大名を牽制する拠点として、11男の頼房を水戸藩初代藩主とした。
日本全国「藩」事情:「前橋藩」
初代藩主酒井忠清は大老として権勢を誇ったが、家綱の跡継ぎを朝廷から迎えようとして綱吉に失脚させられた。しかしそれまで省みられなかった藩政が二代目忠挙、三代目忠相、四代目親愛によって基礎が固められることになった。
暮らし大全:「追いも若きも踊りゃな損々、盆踊り」「”マイ食器&マイお膳”でいただきます」「江戸版メイド喫茶・水茶屋」
盆踊りは鎌倉時代の「踊念仏」が起源で、室町時代から戦国時代にかけて「風流踊り」となってお盆とつながり、江戸時代になって「盆踊り」として各地に定着していった。最も有名なのは「阿波踊り」であるが沖縄の「エイサー」も「踊念仏」をルーツとしている。
今は一家でダイニングテーブルを(少し昔はちゃぶ台を)囲んで食事するのが普通だが、江戸時代には一人に一つずつのお膳で食事をした。典型的なお膳「箱膳」では一通りの食器(飯椀・汁椀・小皿・小鉢・箸)が納められるようになっていて、食後は食器に白湯を注いで漬物等で拭い湯を飲んだあと布で拭いて箱にしまった。
寺社の境内や盛り場の喫茶店「水茶屋」は競って若くて美人の「茶汲み女」を揃えた。中でもトップアイドルは谷中の笹森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘「笹森お仙」、浅草寺境内の楊枝店「柳屋」の「銀杏お藤」、浅草寺境内の大和茶屋「蔦屋」の「お芳」が明和の三美人と呼ばれた。また寛政の三美人は浅草「難波屋」の「おきた」、薬研掘「高島屋」の「お久」、芝明神前「菊本」の「おはん」・・・歌麿などの絵師が錦絵を残している。水茶屋は現代の「水商売」という言葉の由来であるとの説もある。
偉人・奇人列伝:「加賀千代女」
「朝顔や 釣瓶とられて もらひ水」で有名な俳人、人生の大半を故郷の加賀で過ごし、全国から訪れる俳人たちを迎えた。芭蕉の高弟各務支考が立寄って彼女の句を絶賛したのは17歳のときであり、これを機に全国で千代女の名が高まった。

「名所江戸百景」今昔:「真間の紅葉手古那の社継はし」
真間は京成線市川真間の辺り・・万葉の昔から「手古那(てごな)・・手古奈、手児名」という乙女の伝説が伝わる・・・山部赤人「われも見つ 人にも告げむ 勝鹿(かつしか)の真間の手児名が奥津城ところ」。美しい彼女は多くの男からプロポーズされて困惑し、真間の入江に身を投げた・・・もったいない。
側用人とは現代ではさしずめ官房長官であろうか。重要閣僚とも言える大老・老中は前政権からがらりと代えたものの、館林藩主であった綱吉に腹心と言える重臣はいなかった。そこで 「側用人」という特別職を創設して、館林藩家老の牧野成貞を起用した。今の首相が官房長官を介して閣僚をコントロールするのと同様に、側用人を通して老中ら幕閣をコントロールした。綱吉が在位中に任命した側用人は13人、その中で最も有名で力を持ったのは柳沢吉保であった。その吉保も綱吉の死後隠居を申し出て第一線を潔く退いた。
街道を行く:脇街道を知る⑤「熊野街道」、東海道29「浜松宿」
熊野三山へ至る信仰の道「熊野街道」・・・熊野へは西回りの「紀伊路」、東回りの「伊勢路」があった。紀伊路の田辺以降は後に「中辺路(なかへじまたはなかへち)」と呼ばれた。田辺から紀伊半島南岸を経由して熊野に向かう道は「大辺路(おおへじ)」、高野山からの道は「小辺路(こへじ)」、吉野山からの道は「大峯奥駆道」と呼ばれ、今ではこれらを総称して熊野古道と言われる。
駿府城に移るまでの17年間、家康は自ら拡張した浜松城を居城とした。家康唯一の敗戦である「三方ケ原の戦い」では、ここに逃げ帰った・・その折、茶店で「小豆餅」を食べていて、武田軍の声に驚き代金を払わずに飛び出したところ、老婆が家康を追いかけて代金を取ったというエピソードが残る。
三都&町物語:江戸「桜田門」、水戸「水戸」
桜田門外の変で知られる江戸城の出入口で、江戸城防御のため外桜田には大名屋敷が集中していた。したがって登城日には多数の大名が一斉に江戸城に向かうため、大名行列を見物する観光客が集まった。登城日は正月、五節句、毎月の定式登城日(1日、15日、28日など)であった。
江戸時代の前には戦国大名佐竹義宣が支配していたが、関ヶ原の戦いのあと秋田に国替えさせられ、奥州の諸大名を牽制する拠点として、11男の頼房を水戸藩初代藩主とした。
初代藩主酒井忠清は大老として権勢を誇ったが、家綱の跡継ぎを朝廷から迎えようとして綱吉に失脚させられた。しかしそれまで省みられなかった藩政が二代目忠挙、三代目忠相、四代目親愛によって基礎が固められることになった。
盆踊りは鎌倉時代の「踊念仏」が起源で、室町時代から戦国時代にかけて「風流踊り」となってお盆とつながり、江戸時代になって「盆踊り」として各地に定着していった。最も有名なのは「阿波踊り」であるが沖縄の「エイサー」も「踊念仏」をルーツとしている。
今は一家でダイニングテーブルを(少し昔はちゃぶ台を)囲んで食事するのが普通だが、江戸時代には一人に一つずつのお膳で食事をした。典型的なお膳「箱膳」では一通りの食器(飯椀・汁椀・小皿・小鉢・箸)が納められるようになっていて、食後は食器に白湯を注いで漬物等で拭い湯を飲んだあと布で拭いて箱にしまった。
寺社の境内や盛り場の喫茶店「水茶屋」は競って若くて美人の「茶汲み女」を揃えた。中でもトップアイドルは谷中の笹森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘「笹森お仙」、浅草寺境内の楊枝店「柳屋」の「銀杏お藤」、浅草寺境内の大和茶屋「蔦屋」の「お芳」が明和の三美人と呼ばれた。また寛政の三美人は浅草「難波屋」の「おきた」、薬研掘「高島屋」の「お久」、芝明神前「菊本」の「おはん」・・・歌麿などの絵師が錦絵を残している。水茶屋は現代の「水商売」という言葉の由来であるとの説もある。
「朝顔や 釣瓶とられて もらひ水」で有名な俳人、人生の大半を故郷の加賀で過ごし、全国から訪れる俳人たちを迎えた。芭蕉の高弟各務支考が立寄って彼女の句を絶賛したのは17歳のときであり、これを機に全国で千代女の名が高まった。