キュウリの収穫が終わり、ミニトマトも山を越えた。ピーマンはぼちぼち(いつも収穫期は長く続く)。ししとうも結構収穫が続いており、しばらく続きそう。今年沢山植えたモロヘイヤは、葉物には珍しく摘み取り収穫できるので、後から後から成長してきて何回も収穫できる・・・ある程度大きくなると、大き目の枝を20センチくらいで摘み取ると、下の節からまた伸びる。

「名所江戸百景」今昔:「品川御殿やま」
桜の名所、品川御殿山・・・しかし、手前の崖は何? 実は黒船が来航した後、幕府が品川沖に台場(砲台)を築いたとき埋め立て用に土砂を採掘した後だ。「名所」を書くに際して広重はなぜ「無残」な崖を強調したのか?
読み解き江戸時代:「生類憐みの令」の真相、「天下の悪法」の実態とは?
悪名高い「生類憐みの令」・・・なぜ、綱吉はこんなことをしたのかについては諸説ある。
しかし、ちょっと待てよ。今の時代は何なのだ? 猫が木から降りられなくなったらはしご車が出動し、亀の甲に落書きされたら「虐待だ!」と騒ぐ・・この「動物保護」に対する過剰な反応は「生類憐みの令」にも勝るとも劣らない。まぁ、当時は犬を殺して死刑になったり島流しになったりしたそうだけど、そこまではいかないか。「金魚を飼うのは構わないが数を届け出ろ」ということになったらしい・・・ペットをすぐ棄てたり殺したりしないようにする最も先進的な法律だった??
街道を行く:東海道28「見附宿」
京から下ってきて、初めて富士山が見えるので「見附」という地名になった・・。西側の天竜川は「暴れ天竜」と呼ばれる洪水の多い川だったが、川留めになることは少なかった。大井川などと違って船で渡るからだ・・・大天竜川と小天竜川の二つの流れがあって中洲で船を乗り換えた。豪雨の後は乗り換えなし・・・。
三都&町物語:江戸「高田馬場」、京「三十三間堂」
流鏑馬神事(将軍家若君誕生を祝う)の聖地・・・旗本たちの馬術や弓術の練習場だった。中山安兵衛(後に堀部弥兵衛の養子となり赤穂藩士となり堀部安兵衛として討ち入りに参加)の決闘場として知られる。
平安時代に弓の得意な猟師蕪坂源太が三十三間堂の軒下を矢で射通したことに始まる「通し矢」。各藩が名誉のため記録争いをするようになり、紀州藩士和佐大八郎の一昼夜13,053本中8,133本命中(?)が最高記録として残る。
日本全国「藩」事情:「福井藩」
私の研究対象「砂村新左衛門」の出身だが、残念ながらこのような記事でも新左衛門が説明されることはない。私が死ぬ前に「新左衛門をメジャーに」することが念願だ。ここは全国に多数ある「松平」家のいわば本家である。家康の次男結城秀康が越前に入り、家康の元の姓松平を名乗って初代藩主になった。その子二代目藩主松平忠直は乱行を理由に豊後に配流され、その弟の忠昌が三代目藩主となり、「北の庄」という地名が「福居(後に福井)」と改められた。忠昌は越前の復興に当たって新左衛門を重用したと推定される。
暮らし大全:「暑さを乗り切る夏の装い」「8月1日の祝いの日、八朔」「江戸の多彩な鳥食文化」
四月一日(朔日)と書いて「わたぬき」と読むらしい。これは冬物の着物の綿を抜いて夏用に縫い直したことに由来するらしい。旧暦では1,2,3月が春、4,5,6月が夏である。
八月朔日を短縮して「八朔」・・この日は御三家以下諸大名、上級の旗本が白帷子を着て江戸城に登城して、参賀と贈答の儀が行われた。柑橘類の「はっさく」はちょうどこの頃から食べ始めるので名付けられたらしいが、この行事とは関係ないらしい。
昔食べていた鳥肉は鶏肉ではなく野鳥の肉だった。鶴、白鳥、雁、鴨、雉子、山鳥、鶯、鷺、鶉、雲雀、鳩、雀・・・など、要するに何でも食べたらしい。料理法も多種多様であり、フランス人もびっくり・・。「夜明けを告げる神聖な鳥」・・鶏を食べるようになったのは江戸時代から・・。
偉人・奇人列伝:「森幸安」
何と、この時代にあって「宇宙から見た地図」を書いた・・いち早く地図に緯線・経線を取り入れた。

「名所江戸百景」今昔:「品川御殿やま」
桜の名所、品川御殿山・・・しかし、手前の崖は何? 実は黒船が来航した後、幕府が品川沖に台場(砲台)を築いたとき埋め立て用に土砂を採掘した後だ。「名所」を書くに際して広重はなぜ「無残」な崖を強調したのか?
悪名高い「生類憐みの令」・・・なぜ、綱吉はこんなことをしたのかについては諸説ある。
しかし、ちょっと待てよ。今の時代は何なのだ? 猫が木から降りられなくなったらはしご車が出動し、亀の甲に落書きされたら「虐待だ!」と騒ぐ・・この「動物保護」に対する過剰な反応は「生類憐みの令」にも勝るとも劣らない。まぁ、当時は犬を殺して死刑になったり島流しになったりしたそうだけど、そこまではいかないか。「金魚を飼うのは構わないが数を届け出ろ」ということになったらしい・・・ペットをすぐ棄てたり殺したりしないようにする最も先進的な法律だった??
京から下ってきて、初めて富士山が見えるので「見附」という地名になった・・。西側の天竜川は「暴れ天竜」と呼ばれる洪水の多い川だったが、川留めになることは少なかった。大井川などと違って船で渡るからだ・・・大天竜川と小天竜川の二つの流れがあって中洲で船を乗り換えた。豪雨の後は乗り換えなし・・・。
流鏑馬神事(将軍家若君誕生を祝う)の聖地・・・旗本たちの馬術や弓術の練習場だった。中山安兵衛(後に堀部弥兵衛の養子となり赤穂藩士となり堀部安兵衛として討ち入りに参加)の決闘場として知られる。
平安時代に弓の得意な猟師蕪坂源太が三十三間堂の軒下を矢で射通したことに始まる「通し矢」。各藩が名誉のため記録争いをするようになり、紀州藩士和佐大八郎の一昼夜13,053本中8,133本命中(?)が最高記録として残る。
私の研究対象「砂村新左衛門」の出身だが、残念ながらこのような記事でも新左衛門が説明されることはない。私が死ぬ前に「新左衛門をメジャーに」することが念願だ。ここは全国に多数ある「松平」家のいわば本家である。家康の次男結城秀康が越前に入り、家康の元の姓松平を名乗って初代藩主になった。その子二代目藩主松平忠直は乱行を理由に豊後に配流され、その弟の忠昌が三代目藩主となり、「北の庄」という地名が「福居(後に福井)」と改められた。忠昌は越前の復興に当たって新左衛門を重用したと推定される。
四月一日(朔日)と書いて「わたぬき」と読むらしい。これは冬物の着物の綿を抜いて夏用に縫い直したことに由来するらしい。旧暦では1,2,3月が春、4,5,6月が夏である。
八月朔日を短縮して「八朔」・・この日は御三家以下諸大名、上級の旗本が白帷子を着て江戸城に登城して、参賀と贈答の儀が行われた。柑橘類の「はっさく」はちょうどこの頃から食べ始めるので名付けられたらしいが、この行事とは関係ないらしい。
昔食べていた鳥肉は鶏肉ではなく野鳥の肉だった。鶴、白鳥、雁、鴨、雉子、山鳥、鶯、鷺、鶉、雲雀、鳩、雀・・・など、要するに何でも食べたらしい。料理法も多種多様であり、フランス人もびっくり・・。「夜明けを告げる神聖な鳥」・・鶏を食べるようになったのは江戸時代から・・。
何と、この時代にあって「宇宙から見た地図」を書いた・・いち早く地図に緯線・経線を取り入れた。