
アメリカ合衆国東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリーがいわゆる「黒船」を率いて浦賀沖で親書を渡すべく要求した。このとき最初に交渉したのは浦賀奉行所与力中嶋三郎助であった。そして、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)幕府はやむなく久里浜への上陸を認め、親書を受け取った。翌年には神奈川で日米和親条約を締結して日本開国を勝ち取った・・・。そこでこの7月14日前後の土曜日にペリー祭が開催されているのだ。
久里浜海岸(ペリー公園)には「ペリー上陸記念碑」がある。正式には「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」・・・題字は伊藤博文の揮毫による。これは明治になってから久里浜の地を訪れた黒船艦隊の乗組員が、この地に何も記念となる物がないことを歎き、米日友好協会に働きかけて建てたものだ。先の大戦中には、敵国将官を称える碑であるという理由で倒された・・・地元民が自発的に倒したという説もある。いずれにしても(あまりにもでかいから?)破壊されることは免れた。戦争に負けて米軍が駐留してくるという情報を聞いて、地元民は慌てて立て直したという。
「ペリーは日本を脅して開国を迫った敵ではないか、なぜそんなペリーを顕彰してペリー祭などやるのか」という意見が一部にある。確かにそういう一面もあるが、日本の鎖国政策を改めさせ日本近代化に貢献したという功績を評価する考えもある。横須賀市や久里浜観光協会がペリー祭をやるのは、もちろん貴重な観光資源として活用したいからだ。
私は「久里浜三偉人」というのを提唱したいと思っている。江戸時代初期に久里浜(八幡)の内川入海を干拓して内川新田とした「砂村新左衛門」、幕末期に久里浜(八幡)の名主を務め貴重な記録「御用日記」を残したほか画壇・俳壇等で文人として三浦地区随一の実績を残した「長島六兵衛」、そして「M.C.ペリー」である。ペリーは「偉人ではなく異人だろう」という反論があるかもしれないが、まぁ、いいじゃないか。久里浜にはこれくらいしか有名人?はいないのだ・・・。