今は農繁期・・・支柱やネットを用意し、苗を植え付け・・・ほぼ一段落した。残るはハバネロとモロヘイヤの定植。例年の通り、種から育てるものは苗が余っている。ゴーヤがたくさん、モロヘイヤとハバネロが少々・・・欲しい人にあげるけど・・・普通の人は大体植え付けが終っているので、結局多くは棄てることになる。
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「名所江戸百景」今昔:「玉川堤の花」
この水路は玉川上水、右手は内藤新宿の旅籠だ。内藤新宿、品川、板橋、千住を「江戸の四宿」と呼んだそうな・・。

読み解き江戸時代:江戸の水を確保せよ!、「上水開発プロジェクト」
江戸の六上水とは、神田上水(旧小石川上水)、玉川上水、亀有上水、青山上水、三田上水、千川上水。しかし吉宗のとき「風水上よくない」という理由で?神田上水、玉川上水以外の四つは廃止されてしまう。上水を作った理由が「井戸を掘っても塩水が出る」江戸特有の問題解決だったはずなのに・・・。地下数メートルから十数メートルの深い地下から真水を汲み上げる技術が関西から伝わってきたおかげで、水不足にはならなかった。
玉川上水は多摩川上流の羽村から江戸の四谷大木戸までの43km、標高差はわずか92m・・途中で水が流れなくなったり、滲みこんだりして届かず、何度も失敗したそうだ。

街道を行く:富士講、東海道⑲「府中宿」
江戸時代は自由に旅行できるわけではなかった。「寺社詣で」はその許可が得られるよい機会で、単なる宗教的な行動ではなく、物見遊山(名所を見て、名物を食い、女遊びする・・・)であった。江戸中期にブームになった富士講もその一つ。富士山に行けない人のために江戸には50箇所以上のミニ富士山・・富士塚が作られた。そう言えば、砂村新田の富賀岡八幡宮にも富士塚があったなぁ。
府中宿は今は静岡市、古くは弥生時代から都市?だった・・登呂遺跡がある。安治川は川越人足に頼まないと渡れなかった。安倍川餅発祥の地・・石部屋(せきべや)という店も製法もずっと同じだそうな。

三都&町物語:江戸「木場」、京「下鴨神社」
江戸は大火が多く、その都度材木で大儲けした材木屋は大きい。しかし貯木場が焼けてしまったら大損だ。紀伊国屋文左衛門も火災をきっかけにして大儲けし、火災をきっかけに一代でつぶれてしまった。その貯木場を材木屋が開発したのが木場で300年以上木材取引の中心地となった。
「上賀茂神社」と「下鴨神社」・・なぜか字を使い分ける。元は一つの賀茂神社だったが奈良時代に二つになった。同じ字では区別し難いので神社で話し合って「鴨」と「賀茂」に書き分けたというのだが、どうだかね・・・。

日本全国「藩」事情:「津藩」
津藩は藤堂高虎で有名・・・伊賀忍者で知られる伊賀上野も含まれる。松尾芭蕉は伊賀上野の出身・・。

暮らし大全:「江戸の華、遊女はつらいよ」「江戸庶民は歯が命」「隠れたお洒落、ふんどしと湯文字」
ここも厳しい階級社会・・寛文期には「太夫」「格子」「局」「切見世」「端女郎」「散茶」「梅茶」の7段階・・太夫は花魁・傾城と呼ばれ、美貌で諸芸に通じ大名などの相手を務めた。しかし宝暦年間には上位が消えてしまい、「散茶」が「呼出」「昼三」「付廻」に分かれて「呼出」が最上位になった。
江戸時代の歯ブラシは楊柳か潅木の枝で作られた「房楊枝」、歯磨き粉は塩や細かい砂・・これに香料を加えたものが用いられた。
ふんどしは「六尺ふんどし」「越中ふんどし」「もっこふんどし」の三種。
湯文字とは腰巻のことだが、身につけて湯に入ったことから湯文字と言われたらしい。

偉人・奇人列伝:「貝原益軒」
シーボルトが「日本のアリストテレス」と絶賛したという。代表的な著書「養生訓」は84歳で死去する前年に執筆した8巻に及ぶ大作・・・健康維持の大切さが説かれている。