
「名所江戸百景」今昔:「市中繁栄七夕祭」
珍しく「市中」とあるだけで具体的な地名がない。大鋸町(京橋)の広重自宅の屋根から見た景色だという説がある。それにしても笹の高さが半端ではない。鯉のぼりの風景もやはり屋根よりはるかに高くそびえる絵を描いており、広重得意の「誇張」であろう。
歌舞伎のテーマとなったお家騒動、中でも三大御家騒動「伊達騒動」「黒田騒動」「加賀騒動」や化け猫で有名な鍋島騒動は人気の演目であった。御家騒動とは大名家の内紛で旗本や御家人の場合は「御家」とは呼ばれなかったらしい。もちろん将軍家のことを取り上げるのはタブーであった。
江戸時代の旅行は結構リスクがあったんだね。勿論携帯電話も旅行保険もない時代だから大変だ。
健康リスク:行き倒れになる人が結構いたらしい。保土ヶ谷近くの権太坂は最初の難所で、死人を葬るための「投げ込み塚」というのがあったというからびっくり・・。
犯罪リスク:追いはぎ、雲助、偽薬売り、護摩の灰(元は「弘法大師の護摩の灰」と言って普通の灰を高く売りつけたことで、「胡麻の蝿」は間違いらしい)
由比は由比正雪の生地という説があるが、実は違うらしい(というか定説にはなっていない)。
江戸府内の南の出入口「大木戸」が高輪にあったらしい。
相模の「大山詣」と「江の島詣」をセットにした旅行が江戸の人々には大人気であった。「伊勢参り」はあまりにも大旅行になってしまうので手近な相模が人気を博したようだ。商売人などが隠居して夫婦で、町内のみんなで団体で、男同士や女同士で連れ立って・・とさまざまなグループが旅行したのだが、動機が信心だけかといと、そういうわけではなく基本的には「グルメ旅行」であった。男連れの場合はいく先々の宿場で「夜遊び」するのが第一の目的であったらしい。
岩本楼という旅館は今でも江の島で営業しているが、以前は本宮の別当寺で全山を仕切っており、将軍から大名・旗本の宿泊所でもあった。一般人は見学・買い物はできても宿泊はできなかった。
今の埼玉県行田市周辺にあった忍藩、水郷に浮かぶ美しい城(明治時代に取り壊し)は関東七名城に数えられた。今は行田市役所の傍に「忍城址」が残るのみ・・。関ヶ原の戦い以降直轄領であったが、寛永年間になって藩主になったのは家光の時の老中で「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱だ。
当時の武士の離婚率は10%、再婚率は40%・・・今の2倍以上・・・結構気楽に結婚・離婚したらしい。「介添女」という職業は花嫁の身の回りの世話をする仕事らしいが、床入れの世話(How to sex)まで、時には花嫁の代わりに花婿の相手も務めたというから凄い・・
江戸のほとんどは干拓・埋め立てで出来た土地であったため、浅い井戸は飲用には使えず、水道の水が利用された。水道とは神田上水や玉川上水など江戸時代になって作られた上水道のことだ。「水銀」と呼ばれる水道料金を払う必要があったが「すいぎん」ではなく「みずぎん」である。
富札は1枚が金2朱(2万円弱)もしたらしい。一等(一番富)は100~300両(1500~4500万円)、末等は金2分(75000円)・・とても庶民には手が出ない額だが、分割購入の「割札」も売られていた。
京の高級呉服商の三男として育ったが25歳のときに父が他界、莫大な遺産を受け取って隠居し嵯峨の近くの御室に住んで野々村仁清に陶芸を学んだ。次兄は尾形光琳。