今日は仕事の打合せで厚木まで走った。10時からの打合せは渋滞リスクがあるので、いつもより30分ほど早い8時前に家を出た。横横道路と東名高速は順調に流れていたが、保土ヶ谷バイパスは部分的に渋滞していた。・・・というわけで余裕を持ってつくことができそうだったので、海老名サービスエリアで休憩した。海老名で「揚げ饅頭」と「わさび塩」を買った。饅頭(1個160円)は中途半端な味、食感でまずくはないけど人気が出そうにはない。わさび塩(瓶入り262円)はいろいろ使ってみないと分からないけど、てんぷらや刺身に使うと面白そう・・。

「名所江戸百景」今昔:「駒形堂吾嬬橋」
雨が降って暗くなった隅田川上空をホトトギスが鳴きながら飛んでいる・・・というけど、どうしてホトトギスと断定できるのか、どうして鳴いていると言えるのかよく分からない・・。そんなことを言うのは情緒のない人間だという証拠か・・。
隅田川には千住大橋、吾妻橋、両国橋(大橋)、新大橋、永代橋の五つの橋が架かっていたんだって。
読み解き江戸時代:「島原の乱」勃発!「圧政、キリシタン弾圧の果てに・・・・」
島原はキリシタン大名の有馬晴信、天草もキリシタン大名の小西行長の領地であったため、武士や農民にキリシタンが多かった。しかし秀忠が「棄教しなければ処刑」という方針を打ち出し、島原藩主となった松倉氏は徹底的にキリシタンを弾圧、キリスト教を棄てさせた。ところが松原氏はさらに標準より高い年貢を取り立てたため農民たちは追い詰められ、「こんな苦しみを受けるのは棄教のせいだ」と思うようになり、「救世主の出現」を望むようになった。そして現れたのが「神の子」マー君ならぬ天草四郎時貞・・・16,7歳の少年だった。そして一揆軍37000人皆殺しという惨劇へと進んでいった。
街道を行く:伊勢参り、東海道⑭「吉原宿」
日本人なら一生に一度はお伊勢参り・・・と言うわけで、我々も今年の1月に法事の帰りに立寄った。昔は十数日かかった江戸との距離・・・我々は名古屋に立寄っても半日で帰ってきた。伊勢参りのピークは正月から3月にかけてだった(70%が集中)らしい・・・ な~ぜだ?・・・・・・・・答え:農閑期
吉原は東海道を京に向かって歩くとき富士山が左に見える・・これは昔も今も同じらしい。田子の浦の手前で道が北に進むのは津波の被害で通行不能になって内陸へ迂回したためだったらしい。
三都&町物語:江戸「山王権現」、金沢
山王権現とは現在の日枝神社・・溜池山王から赤坂見附に向かって歩くと右側にある。七五三の風習はここに始まるという説(綱吉の長男徳松が3歳の髪置の祝いに参詣した)があるらしい。
日本全国「藩」事情:「長州藩」
そうそう、伊勢に行く前に萩と錦帯橋にも行ってきたんだ。幕末における長州藩からの逸材の輩出は凄いね。日本史の有名人だらけだ。そしてその後も、総理大臣を最も多く生んだのが山口県だ。実際のところ地味な県だけどね・・。
暮らし大全:「目指せ江戸美人!女性の化粧術」「花のお江戸は三味線天国」「江戸のなぞなぞ、判じ絵」
化粧が濃くなったのは最近のことかと思っていたが、江戸の女性も結構厚化粧だったんだね。白粉、紅はもちろん眉も剃って描いていたんだ。
中国の「三弦」が琉球に渡って「三線」になり、これが堺港に伝わって改造されて三味線になったらしい。
今は結構パズルが流行っているけど、江戸時代には「判じ絵」が流行った・・・。風呂屋の看板は「矢をつがえた弓」だったのだが、「弓射る」転じて「湯に入る」というもので結構他愛ないものが多かったようだ。
偉人・奇人列伝:「天秀尼」
天秀尼という女性は知らなかったなぁ・・。駆込寺あるいは縁切寺とも呼ばれた鎌倉松ヶ岡の東慶寺の尼僧だった。豊臣秀頼の娘だったが、豊臣直系の血筋を残さないように東慶寺に預けられた。離婚を望む数多くの妻たちの願いを聞き入れ、悩める女性たちを救済した。当時は妻側からの離婚請求は原則としてできなかったので、離婚を望む女性の最後の砦だったのだ。

「名所江戸百景」今昔:「駒形堂吾嬬橋」
雨が降って暗くなった隅田川上空をホトトギスが鳴きながら飛んでいる・・・というけど、どうしてホトトギスと断定できるのか、どうして鳴いていると言えるのかよく分からない・・。そんなことを言うのは情緒のない人間だという証拠か・・。
隅田川には千住大橋、吾妻橋、両国橋(大橋)、新大橋、永代橋の五つの橋が架かっていたんだって。
島原はキリシタン大名の有馬晴信、天草もキリシタン大名の小西行長の領地であったため、武士や農民にキリシタンが多かった。しかし秀忠が「棄教しなければ処刑」という方針を打ち出し、島原藩主となった松倉氏は徹底的にキリシタンを弾圧、キリスト教を棄てさせた。ところが松原氏はさらに標準より高い年貢を取り立てたため農民たちは追い詰められ、「こんな苦しみを受けるのは棄教のせいだ」と思うようになり、「救世主の出現」を望むようになった。そして現れたのが「神の子」マー君ならぬ天草四郎時貞・・・16,7歳の少年だった。そして一揆軍37000人皆殺しという惨劇へと進んでいった。
日本人なら一生に一度はお伊勢参り・・・と言うわけで、我々も今年の1月に法事の帰りに立寄った。昔は十数日かかった江戸との距離・・・我々は名古屋に立寄っても半日で帰ってきた。伊勢参りのピークは正月から3月にかけてだった(70%が集中)らしい・・・ な~ぜだ?・・・・・・・・答え:農閑期
吉原は東海道を京に向かって歩くとき富士山が左に見える・・これは昔も今も同じらしい。田子の浦の手前で道が北に進むのは津波の被害で通行不能になって内陸へ迂回したためだったらしい。
山王権現とは現在の日枝神社・・溜池山王から赤坂見附に向かって歩くと右側にある。七五三の風習はここに始まるという説(綱吉の長男徳松が3歳の髪置の祝いに参詣した)があるらしい。
そうそう、伊勢に行く前に萩と錦帯橋にも行ってきたんだ。幕末における長州藩からの逸材の輩出は凄いね。日本史の有名人だらけだ。そしてその後も、総理大臣を最も多く生んだのが山口県だ。実際のところ地味な県だけどね・・。
化粧が濃くなったのは最近のことかと思っていたが、江戸の女性も結構厚化粧だったんだね。白粉、紅はもちろん眉も剃って描いていたんだ。
中国の「三弦」が琉球に渡って「三線」になり、これが堺港に伝わって改造されて三味線になったらしい。
今は結構パズルが流行っているけど、江戸時代には「判じ絵」が流行った・・・。風呂屋の看板は「矢をつがえた弓」だったのだが、「弓射る」転じて「湯に入る」というもので結構他愛ないものが多かったようだ。
天秀尼という女性は知らなかったなぁ・・。駆込寺あるいは縁切寺とも呼ばれた鎌倉松ヶ岡の東慶寺の尼僧だった。豊臣秀頼の娘だったが、豊臣直系の血筋を残さないように東慶寺に預けられた。離婚を望む数多くの妻たちの願いを聞き入れ、悩める女性たちを救済した。当時は妻側からの離婚請求は原則としてできなかったので、離婚を望む女性の最後の砦だったのだ。