一昨夜の強風は台風波だった・・。おかげで我が家の農作物は大被害!・・・と言っても、キュウリとミニトマトの苗2本ずつがぶち切れてしまった、合計272円の被害だけどね。高い接木苗を買わなくてよかった。また買いに行かなければならない・・。

「名所江戸百景」今昔:「堀切の花菖蒲」
今の堀切菖蒲園は明治中期に開園し、戦後に復興されたものらしいが、江戸時代にはこの辺りの低湿地に花菖蒲が生えていた・・・というか伊左衛門という百姓が新品種の開発者であった旗本松平定朝から譲り受けて植えたことで名所になったらしい。伊左衛門の「小高園」のほかに「武蔵園」「堀切園」など幾つもの菖蒲園ができて江戸末期から明治にかけて賑わったそうな・・。
読み解き江戸時代:仇討ち!鍵屋の辻「恥をさらして生きてはゆけぬ」
武家諸法度で武士といえども無闇に人を殺しては(斬っては)いけないことになったが、仇討ちについては許可制になった。仇討免許状が出たんだって・・。
「鍵屋の辻」」とは岡山藩池田家家臣の河合又五郎が藩主の小姓渡辺源太夫を殺害して逃亡、弟を殺された渡辺数馬が荒木又衛門の助けを得て伊賀国上野の鍵屋の辻で本懐を遂げた話(歌舞伎や浄瑠璃で人気を博した)である。仇討ちの経緯や荒木又衛門の話が面白い。荒木又衛門って伊賀忍者の子孫なんだって・・身長が大きすぎて忍者には不向きだったので、剣豪になっちゃった。小さいころ剣豪や忍者の話が大好きだったことを思い出す。
街道を行く:脇街道を知る③「伊勢街道」、東海道⑫「沼津宿」
伊勢街道は東海道の日永の追分から分かれて神戸宿から伊勢門前町の山田宿まで七つの宿場がつながって構成される。江戸の人々にとって伊勢参りは「一生に一度」とも言える夢の旅だったそうな・・。野次さん喜多さんも伊勢街道に入って伊勢神宮を目指している。因みに私もこないだ伊勢参り(内宮と外宮)をしてきた。記憶にある限り初めてでやはり一生に一度か・・。
「日本の白砂青松100選」の一つ、沼津の「千本松原」の美しさは当時も旅人をとりこにしたらしく、広重の「東海道五十三次」にも描かれている。大正時代に伐採の計画があったらしいが若山牧水らが保存を訴えて伐採計画は中止に・・そして今も残っている。
三都&町物語:江戸「小石川」、京「嵐山」
水戸藩主の江戸上屋敷に造られた庭園が小石川後楽園、後楽園の名付け親は光圀(黄門)だ。綱吉が作った薬草園「小石川御薬園」に、吉宗が南町奉行大岡忠相に命じて作らせた施薬院(無料の医療施設)「小石川養生所」は後に小石川植物園になった。
嵐山の渡月橋は平安時代に名付けられたと言われるが、北斎の描く絵には「吐月橋」と書かれている・・なぜ?
日本全国「藩」事情:「松前藩」
北海道では米が取れなかったの松前藩は当初は石高がなかった・・「無高の大名格」だったらしいが、その後1万石の「格付け」を得た。
寛文9年にアイヌ同士の紛争に松前藩が干渉・・・倭人の横暴に不満を持っていたアイヌ民族が首長シャクシャインの元に団結、蜂起したが4ヶ月で鎮圧された。シャクシャインはずっと差別に悩まされてきたアイヌ民族の(今でも)英雄である。
暮らし大全:「威厳と格式の武士ファッション」「狭いながらも楽しい長屋ライフ」
羽織・袴が礼服という位置づけになったのは明治以降なんだってね。江戸時代は羽織袴は普段着だった・・下級武士が通勤時に着ていたがあくまでも略装であった。武士は自宅にいるとき以外は袴を着用し、着流しで人前に出ることはなかった。
今の賃貸マンション・・江戸時代の「長屋」・・似てはいるけど、プライバシー・お互い様精神はまったく違う。
偉人・奇人列伝:「辰松八郎兵衛」
人形浄瑠璃の女形人形遣い辰松八郎兵衛は大坂竹本座の「曽根崎心中」でお初の人形を操って人気を博した。「手妻遣い」と呼ばれるアクロバティックな離れ業などで注目された。後に江戸で辰松座を創設して吉宗にも妙技を見せたらしい。

「名所江戸百景」今昔:「堀切の花菖蒲」
今の堀切菖蒲園は明治中期に開園し、戦後に復興されたものらしいが、江戸時代にはこの辺りの低湿地に花菖蒲が生えていた・・・というか伊左衛門という百姓が新品種の開発者であった旗本松平定朝から譲り受けて植えたことで名所になったらしい。伊左衛門の「小高園」のほかに「武蔵園」「堀切園」など幾つもの菖蒲園ができて江戸末期から明治にかけて賑わったそうな・・。
武家諸法度で武士といえども無闇に人を殺しては(斬っては)いけないことになったが、仇討ちについては許可制になった。仇討免許状が出たんだって・・。
「鍵屋の辻」」とは岡山藩池田家家臣の河合又五郎が藩主の小姓渡辺源太夫を殺害して逃亡、弟を殺された渡辺数馬が荒木又衛門の助けを得て伊賀国上野の鍵屋の辻で本懐を遂げた話(歌舞伎や浄瑠璃で人気を博した)である。仇討ちの経緯や荒木又衛門の話が面白い。荒木又衛門って伊賀忍者の子孫なんだって・・身長が大きすぎて忍者には不向きだったので、剣豪になっちゃった。小さいころ剣豪や忍者の話が大好きだったことを思い出す。
伊勢街道は東海道の日永の追分から分かれて神戸宿から伊勢門前町の山田宿まで七つの宿場がつながって構成される。江戸の人々にとって伊勢参りは「一生に一度」とも言える夢の旅だったそうな・・。野次さん喜多さんも伊勢街道に入って伊勢神宮を目指している。因みに私もこないだ伊勢参り(内宮と外宮)をしてきた。記憶にある限り初めてでやはり一生に一度か・・。
「日本の白砂青松100選」の一つ、沼津の「千本松原」の美しさは当時も旅人をとりこにしたらしく、広重の「東海道五十三次」にも描かれている。大正時代に伐採の計画があったらしいが若山牧水らが保存を訴えて伐採計画は中止に・・そして今も残っている。
水戸藩主の江戸上屋敷に造られた庭園が小石川後楽園、後楽園の名付け親は光圀(黄門)だ。綱吉が作った薬草園「小石川御薬園」に、吉宗が南町奉行大岡忠相に命じて作らせた施薬院(無料の医療施設)「小石川養生所」は後に小石川植物園になった。
嵐山の渡月橋は平安時代に名付けられたと言われるが、北斎の描く絵には「吐月橋」と書かれている・・なぜ?
北海道では米が取れなかったの松前藩は当初は石高がなかった・・「無高の大名格」だったらしいが、その後1万石の「格付け」を得た。
寛文9年にアイヌ同士の紛争に松前藩が干渉・・・倭人の横暴に不満を持っていたアイヌ民族が首長シャクシャインの元に団結、蜂起したが4ヶ月で鎮圧された。シャクシャインはずっと差別に悩まされてきたアイヌ民族の(今でも)英雄である。
羽織・袴が礼服という位置づけになったのは明治以降なんだってね。江戸時代は羽織袴は普段着だった・・下級武士が通勤時に着ていたがあくまでも略装であった。武士は自宅にいるとき以外は袴を着用し、着流しで人前に出ることはなかった。
今の賃貸マンション・・江戸時代の「長屋」・・似てはいるけど、プライバシー・お互い様精神はまったく違う。
人形浄瑠璃の女形人形遣い辰松八郎兵衛は大坂竹本座の「曽根崎心中」でお初の人形を操って人気を博した。「手妻遣い」と呼ばれるアクロバティックな離れ業などで注目された。後に江戸で辰松座を創設して吉宗にも妙技を見せたらしい。