毎週火曜日発売のはずだけど、今日届いた。少し早めに書店に置かれるのだろうか? それとも火曜日朝書店に並ぶように月曜日に届けるのだろうか?
関係ない話だけど毎月15日はイオン(ジャスコ)の「ゆうゆうWAON」5%割引の日なので買い物に・・。65歳以上だと加入できる(別仕様のWAONカードを作る)のだが、セルフレジでは係員を呼んで確認後割引処理がされる。因みにセルフレジはポイント2倍・・。
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「名所江戸百景」今昔:「深川洲崎十万坪」
荒涼たる芦原・・・ここは今の江東区役所辺りから海の方向を見渡したところ・・・ずいぶん前に開発済みのはずだが度重なる水害・潮害でほとんど耕作はできなかったようだ。それでも広重が描きたくなるほどのすばらしい景色だったのだろう。洲崎という地名は、その名の通り「洲=河口の砂地」が「崎=海に突き出る陸地」であって、この場所に限らず地名になっている。そう言えば房総半島の館山の西側にも洲崎という地名がある(「すのさき」と読むらしく、深川のほうは「すさき」と言うらしい)。品川にも洲崎があるらしい。
   
読み解き江戸時代:家康、最後の一手「いかにして決戦に持ち込んだのか?」
関が原の戦いで実質的に天下を獲っていた家康だが、名目的には「豊臣家の家臣」に留まっていた。関が原の戦いの口実は「豊臣家を食い物にするけしからん家臣=石田光成らを倒す」ことだった。その後征夷大将軍になっても豊臣家は「目の上のたんこぶ」だったらしい。そのため自分の死後秀頼を担ぐ輩が出てきて豊臣家復権の戦いを挑んでくる恐れがあった。そのため既に大御所になって隠居していた家康だったが、策略を巡らして大坂冬の陣、夏の陣を仕掛け、ついに豊臣家を滅ぼした。
家康が最も恐れたのは真田幸村だったそうな・・そう言えば子供の頃に読んだ「真田十勇士」の話は面白かったなぁ。
   
街道を行く:東海道④「保土ヶ谷宿」
一般的に旅に出る人たちは最初に戸塚で泊まった。そこで保土ヶ谷宿の「留め女」が活躍したらしい。夕方通りかかる旅人の袖や手を掴んで強引に旅籠の客引きをする女たちのことだ。
保土ヶ谷宿の先にある権太坂が険しかったので、その前に泊まった方がいいよということらしい。今でも箱根駅伝の名所となっているこの坂は、昔、旅人に「この坂の名前は?」と聞かれた耳の遠い老人が自分の名前を尋ねられたと思って「権太と申します」と答えたのが名前の由来だいうことだが・・。
   
三都&町物語:江戸「亀戸」、京「清水寺」
   
日本全国藩事情:加賀藩
加賀百万石は富山藩などの支藩を分ける前は120万石・・・豊臣家滅亡の後は徳川家に次ぐ大藩となった。藩主の前田利常は切れ者で、家康は福島正則、加藤清正とともにいずれは危険人物足りうると警戒したらしい。その警戒をかわすために利常は「文化事業」に力を入れたという。彼の周辺には、小堀遠州、本阿弥光悦、千宗室、俵屋宗達らが集まったらしい。
   
暮らし大全「表と裏、長屋の構造」「江戸のマスコミ、瓦版」「いなせのルーツは魚河岸の男にあり」
瓦版と呼ばれるようになったのは幕末以降らしく、それまでは「売り子が大声で読みながら売り歩いた」ので「読売」と呼ばれたという。「大変だ、大変だ」と編み笠などで顔を隠しながら、内容をさわりしか言わずに買い手の購買意欲をそそった読売人・・・なんだか最近のマスコミと似ている??
日本橋の魚河岸で働いていた男たちの髪型が「ぼらの幼魚鯔(いな)の背」に似ていたので鯔背銀杏と呼ばれ転じて、粋な男衆の代名詞となったそうな・・・。
   
偉人・奇人列伝:大久保長安
武田信玄のお抱え猿楽師の子に生まれたが、信玄に認められて武士として鉱山開発などの庶務を担当し頭角を現した。石見銀山の奉行も務めたが、死後不正蓄財の疑いで遺子たちは全員処刑された。
石見銀山はわが故郷早島(備中)の安原伝兵衛が大鉱脈を掘り当て、家康に大量の銀を献上するなど栄えた・・そして銀は掘りつくし、今は世界遺産として残るのみ・・。