定期購読をデアゴスティーニ社のホームページから注文すると、2冊ずつ送られてくる。奇数号が発刊されるとその前の偶数号と一緒に送られてくるので、偶数号の紹介は少し遅れることになる。支払いは前払いではなく送られるたびになるが、私の場合はクレジットカード払いにした。書籍は割引にはならないので、せめてポイントくらいは稼ごう(笑)。
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「名所江戸百景」今昔:「水道橋駿河台」
歌川広重の「名所江戸百景」は視覚的な面白さでは浮世絵の中でも随一・・西洋の画家たちにも大きな影響を与えたと解説されているが、この鯉のぼりも見事だ。向こうの家並みに泳ぐ鯉が誇張されて(家より大きく)描かれていて面白い。ここで見える鯉はすべて「黒い」真鯉である。江戸時代までは「赤い」緋鯉はなかった。明治時代に緋鯉が、昭和時代に子鯉(青色)が加わって、家族を表現するようになったが、元々は端午の節句に男の子の立身出世・武運長久を祈るものだった・・。
駿河台は駿府から家康に付いてきた武士が住み着いて武家屋敷となったことからそう呼ばれることになったそうだ。富士山の眺望がすばらしく形勝スポットであったようだ。前号の駿河町も富士山の眺めがよいことから富士山のある駿河から名づけられたという説があるそうな・・。・・でも幕府開設当時はろくに建物もなく、どこからでも富士山は見えたと思うけど・・。
    
読み解き江戸時代:江戸城、建つ「城づくりに秘した家康の思惑」
諸大名に命じて各地の城郭などの工事を行わせた「天下普請」は、大名たちの「体力」を奪って、政権安定化を図ったものであるという話は有名である。江戸城もその一環で行われた。江戸城は今は皇居になっていて天守閣はない・・。なぜ天守閣がないのかという話は興味深い。慶長12年(1607年)に大御所になっていた家康が建てたものだが、元和年間(秀忠)、寛永年間(家光)にも建て替えられている。その後明暦の大火(1657年)で焼け落ちるまでは大坂城をしのぐ56.1mの威容を誇っていたそうだ。その後、家綱は一時再建を推進したが、平和の時代には必要ないとの判断から天守閣が再建されることはなかった。
砂村新左衛門は明暦の大火を契機として1600年前後に砂村新田、吉田新田、内川新田の開拓を成功させた。
   
街道を行く:「旅の服装と持ち物」、東海道②「川崎宿」
多摩川の下流部は六郷川と呼ばれていて、橋がかかっていたこともあったがたびたび流出したことと、江戸への出入を制限するために元禄以降橋は架けられず、人々は「六郷の渡し」を利用した。六郷の渡しを渡ると、後になって設けられた川崎宿があった。六郷の渡しは今の六郷橋あたり・・。
   
三都&町物語:江戸「日本橋」と大坂「道頓堀」
   
日本全国藩事情:尾張藩
名古屋城の金のしゃちほこ(鯱)の話は面白い・・・。
   
暮らし大全:「身体と心を磨く憩いの場、湯屋」「リサイクル都市を支えた職業のいろいろ」 
八丁堀の七不思議の一つ「女湯の刀掛け」の話は面白い。三助と湯女の仕事の違いは?
「灰買い」「蝋燭の流れ買い」「古傘買い」「馬糞拾い」など何でも商売にする町人たち・・エコなどとは夢にも思っていなかったと思うけど・・。私も子供の頃「くず鉄、くず銅拾い」をして小遣い稼ぎをした覚えがあるけど、あくまでも金のためであってエコ目的ではなかった。
   
偉人・奇人列伝「松平定政」
家康の甥、松平定政の話は初耳だ。家光に仕えて出世したが家光の死に際して殉死しようとして適わず出家・・幕閣批判を繰り広げ托鉢僧となって江戸の辻々を歩いて世間と幕府を驚かせた。狂気の沙汰として所領を没収されて伊予松山藩主の兄に預けられた。
砂村新左衛門とほぼ同時代を生きた人物でもある。