イメージ 1

これは明治初期の入江新田の絵図の写しである(赤星氏著書より)。こないだ七福神巡りをして第七番の大黒天延寿寺にお参りしたとき、久しぶりに入江新田跡を眺めた。この絵図では延寿寺は右岸の下部に位置する。臨海高校の西に県営住宅があるものの、その西側の海岸までは何もない。ここはしばらく荒地になっていたが、最近大規模開発が計画され工事が始まっていた。しかし、このご時勢・・・開発はストップしてしまい、広大な空き地が広がるのみである。
三浦半島において開発された主な新田は砂村新左衛門によって開発された内川新田に刺激されたものであると言う。もちろん小規模な新田はずっと以前から作られていたが、本格的に築堤して干拓する方法は内川新田が最初だったかもしれない。
入江新田は現在の地名では三浦市初声町入江であり、三浦臨海高校(旧三崎水産高校)のある辺りから西側の海岸に至るまでである。今の地図と、この絵図との関係がいま一つよく理解できない。多分、海岸側は後に干拓ないしは埋め立てられたものと思われる。
入江新田は宝永年間に大田和村の山田惣左衛門という者が開発を企て、その子儀左衛門が大井六郎左衛門と協力して成功に至ったと伝わる。大井家(吉左衛門)は隣の和田村の名主であったので、おそらく大井家が資金提供者であったものと思われる。
ここの特徴は潮除堤が二段構えになっていることである。なぜこうなったのかは確かではないが、おそらく最初に作った一段ではうまくいかず追加して築堤したものと思われる。したがって第一と第二の堤の間は後世になっても芦の生える沼地であったらしい(絵図では水色になっている)。
推定すると今臨海高校の西側の道路が第一の陸側の潮除堤で、県営住宅の西側の道路が第二の海側の潮除堤らしい。従って今の海に至る空き地は明治より後の埋め立て結果なのであろう。