

特に体調が悪いわけでもなく、特に忙しいわけでもないのに・・。
あまりネタがない・・・というか情熱が冷めてきているのだろうか・・。
今回は明治時代の内川新田の地図と夫婦橋の絵を取り上げてみよう。
これは陸軍省が参謀本部と共同して関東一円の測量を実施し区画地図を作成したものから複写した。このあたりを測量したのは明治15年のことであった。もちろん当時は「軍事機密」として扱われ、公表されることはなかった。
私が見たものはもちろん後世の複製で、横須賀市立中央図書館で書庫から出してもらったものである。資料名は「明治前期 手書彩色関東実測図 第一軍管二万分一迅速測図 覆刻版」となっている。原本は国土地理院所蔵で財団法人日本地図センターによる復刻である。区分図はA3サイズの大きさで関東全域の地図を合わせると10kgはありそうだ。書庫から出してもらうことを依頼したがなかなか出てこない・・「見つからなくて探しています」とのこと・・男性の職員が改めて出かけて10数分後、戻って来たときに抱えているものを見て仰天した。その内の数枚をコピーしただけなので、なんだか悪い気がする・・。
それぞれの区分地図の欄外には、その地域の名所的な場所や建物のスケッチが描かれている。内川新田中心部の地図は「神奈川県相模国三浦郡野比村」の端っこにあって、欄外に「内川新田夫婦橋」が描かれている。資料名にあるように「彩色」されているが、フルカラーというわけではない。地図も欄外の絵もいずれも茶色と水色に彩色されているだけある。ここから内川新田の海岸側は「八幡久里浜村」、内陸側は「大津村」の区分図に示されている。
夫婦橋は今の夫婦橋よりも少し上流にあった。戦前に海軍がこの地に施設を展開した際、浦賀との交通のために新たに橋と道を作ったのである。地図で分かるように夫婦橋から南東は当時まだ海(内川の入江)であった。これらの大半が陸地になり平作川河口が今の開国橋付近になったのは関東大震災の後である。震災で入江が隆起してしまったので、入江全域が埋め立てられたのである。
夫婦橋から南南西に続く道は今の黒船仲通商店街などの旧道である。江戸時代から大正時代まではここがメイン道路だったのである。もちろんJRや京急の駅ができたのも戦前の海軍進出のときであって、それまでは「辺鄙な村」だったのだ。
出来事(~9月5日)
生活:今年はゴーヤ茶を量産?中。去年は保存食として漬物を作りすぎたので、漬物は最小限にして余ったものは乾燥して炒って粉砕しゴーヤ茶にしている。漬物は今まで三杯酢のようなものに漬けていたが、今年は新たに醤油漬け(酢を使わず、にんにく、みりんを使っている)に挑戦した。なかなかいい味だ。
最近仕事が多くなっている。旅行にも行かなければ?ならないので結構忙しい。
運動:最近の日課はWii Sports Resortで夫婦対戦・・ピンポンでは妻になかなか勝てない・・妻は体全体を使ってやるので大汗をかいていい運動になっているようだ。私は手先でやるのであまり運動にならないけど・・。ボウリングも同様だが、これは今のところ勝っている。そのほかフリスビー、チャンバラ、ウェークボード・・・となかなか面白いゲームが多くてしばらく飽きそうにない。放っておいたWii Fitも取り出して筋肉を鍛えて?いる・・。
ゴルフは相変わらず好不調を繰り返している・・。
園芸:夏野菜もそろそろ終わり・・。ゴーヤ、ミニトマト、オクラはまだ細々と収穫が続いているけど・・。ハバネロは実がたくさん付いているけど赤くなるのはまだだいぶ先らしい。秋冬野菜としては、とりあえずブロッコリーの種を蒔いて育苗中・・。