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笠塔婆の中央にある「南無阿弥陀仏」の文字の中で「無」の字の最初のはねが異様に大きい。何を意味するのかは分からないが、これを書いた人の何らかの気持ちが込められているのだろう。
そして、右に「霊厳寺」、左に「大誉」とあってその下に花押らしきものが見られる。花押があるということは大誉の直筆であることを示すのであろうか。霊厳寺の大誉とは一体どのような人物であったのか。

霊厳(れいがん)寺が建立されたのは寛永元年(1624年)のことで、雄誉霊厳が今の霊厳島(当時は霊岸島?)に創立したといわれる。まだ新左衛門が越前にいる頃である。しかし、霊厳寺は明暦三年(1657年)の大火で消失した。そして萬治元年(1658年)今の場所(江東区白河)に移設されたという。後に寛政の改革で有名な松平定信が葬られた(今も墓所が残る)ことでも有名な寺である。

その移設のときの住職が第三世大誉珂山であった。大誉はその後も寺の復興を主導し中興の祖とも呼ばれる。この明暦の大火をきっかけに新左衛門は江戸に移住したと見られる。霊厳寺が移設された萬治元年は新左衛門がこのあたりで宝六島(後の砂村新田、近世には砂町)の開拓を始めた年でもあるからだ。私は新左衛門が幕府の要請によって江戸復興事業のためやってきたと推理しているので、この寺の移設にも大いに貢献したのではなかろうかと思う。彼は土木技術に長けていたから建物ではなく基礎や石段などを担当したかもしれない。そしてこのときの恩を感じた大誉が新左衛門に乞われて、書(念仏)を寄せたのではないかと推測する。この碑が建てられた寛文七年(1667年)の2年前に79歳だったという記録(霊厳寺を江戸菩提寺とした京都の京極家初代高通の肖像画中の大誉の讃)がある。
次回は碑の下部の新左衛門の記録について。

出来事(11月17日~18日)
生活:68kg台で止まっている。便秘のせい?それとも今の食事のカロリー量がバランスする体重に達したのか?安全のためにもう2,3kg痩せておきたいところだが・・・。今日と明後日に外食機会があるので、ちょっとしばらく停滞かな?
運動:なし
園芸:休み・・・ここのところ時々雨が降るので散水はあまり必要ない。