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国道134号線の夫婦橋から野比にかけては今では「尻こすり坂通り」と呼ばれている。昔は道なき山道で下るときには尻を擦るようにして降りたことから名付けられた。明治18年開鑿(削)工事が竣工して、写真の碑(右側、解説の銘板が左にある)が建てられた。何度か移設するうち上のほうが壊れてしまったそうだ。
今日は、これを確認しに出かけた。写真にとって読み取ったものが下記である。壊れた部分、読み取れない部分は推測している。「斯里古須利坂」という字があてられているが、表現も何度か変遷しているようだ・・。碑文の内容その他はまたの機会に・・・。

萬世永頼

斯里古須利坂開鑿記  神奈川縣令從五位沖守固篆額
相模國三浦郡之爲地三面沿海山岳盤紆少平地人艱行歩雖有漁獲之
利不便搬運郡長小川茂周慨之久矣於斯與郡民謀穿山腹而爲隧道削
峻坂而爲坦塗以便行運者不為尠令又開鑿摩臀坂摩臀國音日斯里古
須利其以摩臀命坂者何謂其險峻下坂者必摩其臀也坂在八幡久里濱
村野比村之間從浦賀往來三﨑者皆取道於此天保年間八幡久里濱村
里正長島六兵衛者有開鑿此坂之志而不果其子尚賢繼其志亦未果而
老焉今戸長長島安尚尚賢子也常欲代果之而未得時機明治十一年會
郡長勸誘郡民使致方於道路開通之事安尚大悦以爲成父祖之志其在
此時乎乃首應之周旋有力近村諸豪翼賛其擧者亦多遂醵金若干計畫
畧備焉郡長慮其猶未也使諸村以公費助之村會不敢異議官民協和乃
以明治十七年五月起工以其十八年十二月竣功費金五千圓役夫三萬
人於是行旅得以安歩車輛得以徐通其利干斯民不亦大乎鳴呼有此郡
長而有此郡民何事不成何擧不遂豈止區區一坂之開鑿乎哉
明治十八年十二月   神奈川縣大書記官從六位田沼健撰
               雪操六十八老農長島尚賢書

出来事(4月16日~17日)
仕事:なし。
生活:変化なし?
園芸:ナス、キュウリ、トマト、ピーマンの苗各2本を定植し、仮支柱を立てておいた。ブルーベリーは場所未定につき保留・・・。
運動:自転車による久里浜往復のみ。ついでに花の国に確認に行った。ポピーが一輪だけ咲いていた。