「昭和20年代のアメリカ統治下の奄美大島の学校の思い出」 | office894のブログ

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土門拳賞受賞写真家故砂守勝巳の軌跡を辿ります

父の少年時代、過ごした場所はどんな場所だったんだろう。
ふと、そんなことを思い、奄美大島を、教育の角度からヒアリングをして見てみることにした。

昭和11年11月9日に誕生したTは私の大叔母である。鹿児島県奄美大島出身で、アメリカ統治下の学校体験を語ってくれた。
昭和18年4月1日(6歳)に鹿児島県名瀬市奄美尋常小学校に入学するも、島全体が貧しく、生きることに必死だった当時、まともに授業を行う状況ではなかった。
国語は「狛犬さんこんにちは」というものが記憶にある。
その他、理科・国史・地理。
算数は計算が早くできた生徒から帰るという競争が楽しく、体操はかけっこやバレーボール・ドッジボールをして遊んだそうだ。
家庭科は物資が乏しく実習はなく、教科書の勉強のみだった。
昭和20年4月20日、大規模な空襲で校舎が全焼する。
終戦の日はラジオを持っている個人がいなかったため、隣近所からの噂で知った。大人たちは万歳をしていたそうだ。
大叔母は、戦争に負けたことよりも、空襲を逃れるための山の奥での生活が終わったことがうれしかったという。
飛行機の音や空襲がなく平和がもどったことに喜びと幸せを感じたそうだ。
しかし、昭和21年1月29日、プライス米海軍少将沖縄地区司令官による、奄美の行政分離の宣言がなされ、2月2日(二・二宣言)により北緯30度以南の南西諸島が日本政府から分離された。
昭和28年12月25日に日本に復帰するまで、沖縄県とともにアメリカ合衆国の統治下におかれたのだ。
これは、本土には見られない注目すべき事項であろう。
そのため6・3・3制は本土より一年遅れ昭和23年に奄美小学校としてスタートすることとなる。
日本が敗戦国となり、世の中が民主主義になっても家庭では封建的な教育は変わらなかったそうだ。
食事は正座で食べる・卵は男しか食べられないなどの男尊女卑があった。
他にも、男の前を歩かない・またがない・風呂にはいるのは男からなどと、厳しくしつけられたそうだ。
他方、学校では授業が正常に実施できない状態が続いた。授業よりも作業が多かったそうだ。
米軍払い下げのテントを校庭にたてて校舎の代わりにしたが、穴があきぼろぼろだったので、女生徒が縫って修繕した。
雨水をさけながらの授業だったという。かき集めたそばの箱をひっくり返して机の代用とし、丸太を切って棒の上にのせた椅子を置いて数年勉強した。
教育現場では従来の教科書を使用することがゆるされてはいたが、本土では教育の改革がおし進められており、その内容は、全部あるいは部分的に削除されていた。そもそも、従来の教科書を使用するにも戦争による壊滅状況で、収集自体がむずかしく、不足する分を取り寄せる前に、本土との交流の必要があったが、海上は封鎖されたままだった。
校庭に落ちた鉛筆の小片を拾い集め、教科書が集まらなければ作るしかない必要から、墨ぬり教科書・もしくはその残存教材をガリ版印刷し、輪番で書き写して使ったそうである。
昭和23年6月6・3・3制を求め、二人の教諭が本土へ密航をする。当時密航者は厳罰に処せられ、入獄することが多々あった。命がけの行為だったのだ。
その翌年大叔母は昭和24年3月末日(12歳)奄美小学校(奄美尋常小学校)を卒業した。
昭和24年4月(12歳)名瀬中学校入学し昭和27年4月(16歳)名瀬高等学校定時制へ進学した。
5人兄妹の真ん中だった大叔母の2人の姉は小学校を出た後に沖縄の米軍基地へ働きにでた。
その後米軍人との国際結婚でアメリカへ渡った。
家族は反対したが家の口減らしのために働きに出したため、反対は出来なかったそうである。当時は兄妹といえども平等ではなく、家族の犠牲になって働かざるを得ない状況だった。
大叔母が働きながらも進学出来たのは、偶然の出来事であり長女だったら進学出来なかったであろう。同級生には中卒で就職難だったので本土に働きに出た者が多かった。
敗戦で迎えた地域の教育が中央政府から置き去りにされ、権利を勝ち取る経緯は本土のどの地域にもみられることのない特異な歴史である。
今回、歴史に翻弄された中での教育体験を聞けたことは実りの多いものだった。
当時の奄美大島は、貧富の差というよりも島全体が貧しく、ほとんどの島民が裸足で過ごし、勉強よりも生きる糧である農業を手伝っていたようである。
家庭生活・社会生活の中で人間としての倫理観や道徳観を体得し、教師たちが命がけで勝ち取った希少な学業を感謝しながら受けていたようだ。
大叔母は言う。「極限の生活の中で人と人とが励まし合い、助け合い生活を営んでいた。貧しくとも人間愛があった。」
他方、現代社会では、高度な教育をほぼ平等に受けることができる。
しかし、学歴社会という問題により、受験戦争やいじめが起こるなどの弊害も孕んでいる。
それらの教育の歴史を踏まえてこれからの教育はいかにあるべきだろうか?
情報や選択肢が溢れる現代社会の中で行うべきは均一的な教育ではなさそうだ。
それぞれの個性が開花し、自分の目で情報や選択肢を取捨択一できるような力を養うことが必要だと思われる。
それには、子どもの才能を伸ばせるような手助けを親が行うべきであり、親や教師もまた、子どもとともに学び成長し続けなくてはならない。



平成22年8月14日ヒアリング
参考文献、「復帰40周年記念 戦後の奄美教育誌」、1993年12月25日、名瀬市教育委員会、「新訂奄美復帰史」、村山家國、南海日々新聞社、2006年、