長田弘の詩集。昨年の100冊目に読んだ本。今年初めの書評で取り上げるには、ちょうどいいかも知れない。ちなみに詩集を一冊全部読破したのは初めて。
空と土とのあいだで
どこまでも根は下りてゆく。どこまでも
枝々は上ってゆく。どこまでも根は
土を掴もうとする。どこまでも
枝々は、空を掴もうとする。
おそろしくなるくらい
大きな樹だ。見上げると、
つむじ風のようにくるくる廻って、
日の光が静かに落ちてきた。
影が地に滲むようにひろがった。
なぜそこにじっとしている?
なぜ自由に旅しようとしない?
白い雲が、黒い樹に言った。
三百年、わたしはここに立っている。
そうやって、時間を旅してきた。
黒い樹がようやく答えたとき、
雲は去って、もうどこにもいなかった。
巡る年とともに、大きな樹は、
節くれ、さらばえ、老いていった。
やがて来る死が、根にからみついた。
だが、樹の枝々は、新しい芽をはぐぐんだ。
自由とは、どこかへ立ち去ることではない。
考えぶかくここに生きることが、自由だ。
樹のように、空と土とのあいだで。
数年前に読んだポール・オースター『孤独の発明』にある一節を思いだす。
都市を歩くとき我々が行っているのは、実は思考すること、それもさまざまな思考がひとつの旅を形成するようなやり方で思考することではないだろうか。そしてこの旅こそが我々が歩む歩みにほかならないのであり、したがってつきつめて考えるなら、我々は旅をしてきたのだ、と言ってよいのである。たとえ部屋を出なくとも、それは旅だったのだ。我々はどこかへ行ってきたのだ、と言ってよいのである。たとえそれがどこなのかはわからなくても。
星野道夫の『旅をする木』という本にこういう言葉があった。
人間の気持ちとは可笑しいものですね。
どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、
風の感触や初夏の気配で、
こんなにも豊かになれるのですから。
人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。
きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう。
子供の頃、北斗の拳にでてくる雲のジュウザだ好きだった。小学生だったあの頃。僕だけでなく、友だちの誰もが雲のジュウザに憧れていた。でも今の僕は自由に旅することよりも、時間を旅することに惹かれている。
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