『無思想の発見』養老孟司/ちくま新書 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

養老 孟司
無思想の発見

この本では、日本の世間で生きてきて、長年不思議だと思っていたこと、それについてこの歳まで考えたこと、それを書いた。たとえば日本人が自分は「無」宗教だという、その「無」って、仏教の無じゃないの。だって、仏教ではさかんに無というんだから。それなら無宗教じゃなくて、じつは仏教徒じゃないの。というふうなことである。

(中略)
ぼちぼち七十歳に近くなってきた。そうなったら、意外にも日本が心配である。これまでそんな心配をするヒマはなかった。忙しかったからである。さすがに歳をとって、することがなくなったらしい。
(あとがきより)

解剖と虫取りにしか興味の無い養老先生が、珍しく日本の将来を心配して書いたらしい。社会を創り上げているのは「世間」と「思想」であり、日本はもともと「思想」の部分が少なく「世間」によって社会が創られていた。だが、この「世間」が壊れつつあり、中途半端な「思想」が蔓延してゆく日本の将来を心配している。という風に解釈して読んだ。

日本人はずっと無思想でやってきたので今さら「思想」を受け入れるのは「世間」が許さない。珍しく「思想」を受け入れたときは大失敗をしていることだし、無思想でやっていくほうが僕としても受け入れやすい。となると「世間」を立て直すということになるのだが、「世間」は個人の集合なので個人が変わらなければならないとなる。大衆のなかで信じられるのは「身体を使って生きる人」とも書いている。概念世界で生きる人ではなく、感覚世界で生きる人。たぶん「事件は現場で起こってるんだ!」というような人たちのことだと思う。

つまり、日本人全員が踊る大捜査線の青島刑事(身体を使って生きる人の代表)の言葉に従いつつ、彼のような人になれば日本も安泰ということかと思われる。変な国だけど、強そうではある。

ポニーキャニオン
踊る大捜査線 THE MOVIE ~湾岸署史上最悪の3日間!~


以下、真面目に気になった文章を引用

第三章 われわれに思想はあるのは

「世間は思想だ」ということを、多くの人は認めないだろう。なぜなら、世間と思想は「次元が違う」と思っているからである。でも「どちらもじつは脳の中じゃないか」という考えをとるなら、両者は並立となる。(中略)
「世間と思想は補完的だ」
という結論が得られる。それなら世間の役割が大きくなるほど、思想の役割は小さくなるはずである。同じ世間のなかでは、頭の中の世間が大きい人ほど「現実的」であり、思想が大きい人ほど「思想的」なのである。
(中略)
異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は日本に比べて、よくいえば「世間の役割が小さい」、悪くいえば「世間の出来が悪い」のである。「自由、平等、博愛」などと大声でいわなければならないのは、そういうものが「その世間の日常になかった」からに決まっているではないか。

「すべては脳のなかだろ」
というとき、べつにニヒリズム、つまり「価値あるものはない」といっているのではない。
「存在であれ、価値であれ、要するに脳のはたらきだ」
といっているだけである。

第四章 無思想という思想

明治維新以降の日本の変わり身の早さ、それは同時代のアジア、中国や朝鮮と比較すれば、なんとも特徴的であろう。それを基礎づけているのは、「思想がないという思想がある」という、この真空原理であるといしかない。

どんな思想も万能ではない。そのなかで「俺は思想なんて持ってない」という思想は、欠点が見えにくい思想である。そもそもそれを「思想だなどと夢にも思っていない」んだから、訂正する必要もないし、それについての他人の批判を聞き入れる必要もない。

「やむえない」という表現は、つまり「現実が思想を圧倒した」というときに使われるのである。借り物や手軽な思想は、しばしば現実に圧倒されるからである。(中略)
そんな思想はいくら現実に圧倒されてもかまわない。その裏にこそ、真の不倒の思想があるからである。
それが、
「思想なんてない」
という思想である。

第五章 ゼロの発見

感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である。言葉という道具は、この二つの世界を結ぶ。感覚の世界は「違い」によって特徴づけられる。概念の世界は、他方、「同じ」という働きで特徴づけられる

第七章 モノと思想

おそらく大衆は信ずべきものでも、信ずべからざるものでもない。問題はむしろ、大衆の何を信じ、なにを信じないか、であろう。(中略)
そもそも無思想で通してきた国で、大衆の思想つまり概念世界に関する感覚なんか信じても、ロクなことがあるはずがない。しかし感覚世界は、簡単には変えられない。だから具体的に生きる人たちを信じるのは、どこの世界でも当然であろう。身体を使って生きている人といってもいい。

第八章 気持ちはじかに伝わる

日本の世間は、無思想の思想を長らく前提としてきたから、それが「思想である」ことすら、忘れてしまったのであろう。でもそれに従って暮らしているとすれば、それは信仰というしかない。無意識の信仰なんて、それこそいくらでもある。信仰とは、むしろ本来は無意識なものというしかない。それを意識的な信仰としたものが、いわゆる宗教なのである。だから日本人は自分は無宗教だ、思想なんてないというのである。

第九章 じゃあどうするのか

「変わらない私」とは、「情報としての私」ということである。なぜなら、「変わらないもの」とは、情報のことだからである。意識が扱えるのは情報だけで、なぜなら「変わらない」とは、つまり「同じ」だということだからである。それなら意識の世界すなわち都市社会におかれたヒトが「情報に変わる」のは、無理もない。
(中略)
社会は人で構成されており、人が変わらなければ、社会そのものが変わるはずがない。
(中略)
「自分は自分、同じ自分だ」
というあなたの思想こそが情報化社会をもたらした。その意味では、思想は社会を動かす。そして「思想のない社会はない」のである。

もう一つ、楽をする方法がある。「こうだ」と決めてしまうことである。決めてしまえば、それ以上、考えないで済む。それが原理主義である。実際にこれはかなり有効な方法だから、多くの人はこれを採用する。有思想が陥る大穴はこれである。

「変わった」自分はいままでとは「違った」世界を見る。自分が変われば、世界全体が微妙にずれて見える。大げさにいうなら、世界全体が違ってしまう。それが「面白い」。つまり「未知との遭遇」とは、本質的には新しい自分との遭遇であって、未知の環境との遭遇ではない。