『世界が完全に思考停止する前に』森達也/角川文庫 | 砂場

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森 達也
世界が完全に思考停止する前に


ドキュメンタリー作家の森達也による時事評論集。オウム真理教の荒木浩を主人公としたドキュメンタリー映画「A」が彼の代表作だ。あとがきで森達也はこう書いている。「世界の思考を停め、僕らの身を現在も脅かし、そして僕らが本当に対峙すべき相手は、邪気や悪意などでは断じてなく、一人称の主語を失った善意や優しさなのだ。」

イラク戦争、北朝鮮拉致問題、自衛隊派遣、イラク人質事件、捕虜虐待、タマちゃん、BSE、引きこもり、池田小学校児童殺害事件、テロ問題、他多数。これらどの問題に対しても、森達也は世間の意見とは反対の立場にいる。文庫版のあとがきでは自嘲気味にこう書いている「僕は時代の先になど行っていない。今のこの時代の変化についていけず、ぶつぶつと列の最後尾で愚痴や繰言を書いているだけだ」

今までこういった左側の人が書いたものは読んだことはなかったが、本書はいろいろと学ぶことろが多かった。様々な問題に対して森達也が悩み答えを探しているところが、はじめに結論ありきで上からものを言う左翼論壇人とは違って、こちらも真剣に考えさせられる。右寄り人ばかりが人気の最近なので、こういった本をどんどん書いて欲しいなと思う。

以下、気になった文章の抜粋。■はエッセイのタイトル

■主語のない述語は暴走する

遺族や被害者が憎悪や報復感情に捉われることは当たり前だ。なぜなら彼らは当事者だ。この感情を社会が共有しようとするとき、一人称であるはずの主語がいつのまにか消失する。「俺」や「私」が「我々」となり、地域や会社、そして国家など、自らが帰属する共同体の名称が主語となる。本当の憎悪は激しい苦悶を伴う。でも一人称単数の主語を喪った憎悪は、実のところ心地よい。だからこそ暴走するし感染力も強い。

■タマちゃんを食べる会

アザラシの命の尊さを声高に叫びながらホタテの命をゴミのように扱ったり、在日外国人に選挙権を与えずにアザラシに住民票を交付することの矛盾に対して、不感症になりたくない。

■不思議の国の極刑裁判

判決翌朝のワイドショーで、法廷での麻原の見苦しさを論ったゲストが、「とにかく生きる価値などない男だよ」と言い加えた瞬間、七歳になる長男は、じっと無言でテレビを見つめていた。
「確かに彼は人を殺めた。だから罰を受ける。でも本当は、生きる価値がない人なんていないんだよ」
僕のこの言葉が、怯えたような表情の息子に、届いたかどうかはわからない。

■毒にも薬にもならないバラエティ

今回のこのコラムを、その番組の被写体となって傷ついた人がもし目にしたら、僕は彼らを更に傷つけることになる。その自覚はある。この加害の輪廻から完璧に離脱することは不可能だ。加害することが宿命ならば、目を逸らさずに凝視すべきなのだ。開き直れという意味ではない。メディアに帰属する人たち一人ひとりに、人を日々傷つけていることの自覚と覚悟がもう少しだけあれば、無闇に人を加害することはもう少し減るはずだ。

■「長谷川敏彦君は、僕の弟を殺害した男です」

加害者である長谷川の名前に「君」という尊称をつける原田は、「呼び捨てにしてすむ程度の気持ちを抱く人を羨ましく思う」と書いている。この箇所を読んで、そういえば松本サリン事件で当初は加害者として報じられた河野義行も、麻原被告に対して「麻原さん」と呼ぶことを僕は思いだした。もう一度書くよ。「呼び捨てにしてすむ程度の気持ち」。つまりは今の社会が抱く加害者への憎悪だ。

■太宰治とドキュメンタリー

僕は今、とても当たり前のことを書いている。表現はすべて主観なのだ。客観的なベートーベンの交響曲や中立なシャガールの絵を想定して欲しい。誰に感動を与えることができるのだろう。もちろん活字も同様だ。ノンフィクションなどありえない。もしも存在するのなら、それは作品ではなく情報だ。表現行為は徹頭徹尾フィクションなのだ。

■あとがき

間違いなく今、世界は壊れかけている。思考を停止しつつある。その責任は、僕たち一人ひとりにある。なぜなら同時代にいるからだ。事後に特定の誰かを論うための責任論は、空しいし意味がない。僕らはいわば、この世界を壊し続けることの共謀共同正犯だ。
(中略)
僕らは有機体のネットワークだ。僕らの同意のもとに世界はある。一人ひとりがこの世界に責任がある。


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A

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