『「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論』斎藤環/中公新書ラクレ | 砂場

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斎藤 環
「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論

『戦闘美少女の精神分析』が面白かったので本書も読んでみた。雑誌連載らしく読みやすく、著者の専門分野の話題なので問題点などの視点も明確で、論理的に書かれた内容。現場の人間らしく、実効性のある対策についての論考が多いのが好印象。メディアに対してとことん批判的なあたりも同感だ。

以下、気になった文章

・ひきこもりを羨望する視線

例えば漫画家・つげ義春の描く作中人物が、しばしば「いっそダメになってしまえたら……」と呟く時、その「ダメな場所」は、まるでほの暗く湿って温かい母胎のように、われわれを誘惑するだろう。非社会的若者の居場所は、事実に反してそのようにイメージされているがゆえに、彼らは排除され非難されているのではないか。
しかし、そのような「誤解」によって羨望されているかもしれない彼らの居場所は、しばしばあてどのない怨念と敗北感がわだかまる、一種の精神の牢獄だ。この牢獄が特別なのは、扉を開ける鍵を彼ら自身が持っているにもかかわらず、それを使うことができないという点にある。彼らは彼ら自身を「負けた」という意識の中に監禁し続ける。

・勝敗を決定づける軸

勝敗を決定づける軸の一つは、あきらかに「コミュニケーション」である。私は若者の対人評価基準が、いささか「コミュニケーション・スキル」に偏りすぎているような印象を数年前から持っている。

・自傷的自己愛=「負けた」教

彼らは、負けたと思いこむことにおいて、自らのプライドを温存しているのではないか。現状の自分を肯定する身振り、すなわち自信を持って自己主張することは、批判のリスクにまっさきにさらされてしまう。むしろ現状を否定することで、より高い理念の側にプライドを確保することが、彼らが「正気」でいられる唯一の手段ではないか。

・シニカルな主体

テレビメディアは、それが最も大衆的なメディアであるという理由によって常に軽蔑の対象であり、およそ深遠さや崇高さなどとは無縁のものとみなされ続けてきた。そのことが作り手、ないしは受け手の双方に一定のシニシズムをもたらし、それが結果的に健全なチェック機能として働いていたのだ。それはいうなれば、倫理的態度としてのシニシズムでもあった。
(中略)
シニシズムによって維持されていたはずの倫理が、自らを正統的な倫理の担い手であると錯覚したとき、テレビというメディアは失調をきたすのだ。

・自身の寛容性に懐疑的であれ

そう、われわれは自身の寛容性に対して、常に懐疑的であらねばならない。それがしばしばアンバランスなものになりがちであることは、本書でも繰り返し指摘してきたことだ。他者に寛容であるために心理学化が要請されるのはやむを得ないとはいえ常に姑息な手順にとどまる。そのような他者理解は、いつわりの共感によって他者性を否認し、他者をわがものにしようとする試みにしかならないからだ。そのとき共感は、一歩間違えばいわれなき非難と差別の温床となりうるだろう。
それゆえに他者性の尊重は、むしろ「他者の不透明性」あるいは「他者の得体の知れなさ」を前提として確保されなければならない。これは理解や解釈を放棄せよ、という意味ではない。そんなことは単に不可能だ。分析や理解は、世俗的な誤解を予防するためになされるのは当然としても、最終的には理解不可能なポイントを探り当て、その手前で立ちすくむためにこそなされなければならない。

・専門家とは「わからない」人

啓蒙的段階を過ぎ、私が引き続き「専門家」を自称し続けるならば、今後はひきこもりの「わからなさ」について多く語るべきなのかもしれない。「専門家」とは何にでも回答できる人のことではなく、「何がわからないか」を正確に知っている存在のことなのだから。

・こづかいは薬

ひきこもりの子を抱える家族には、必ずこづかいは渡すように指示している。社会参加の第一歩は「働くこと」ではなく「消費すること」であるからだ。

・弱者のなかの弱者

仮にこの種のネットワーク(引用者注・就職支援ネットワーク)が完備したとして、それでも問題は解消しない。むしろ「意欲あるひきこもり」と「無気力なひきこもり」という区分が、現在以上にはっきり見えてきて、後者がさらなる差別や批判の対象にされかねないのだ。このうように、支援のためのシステムは、えてして弱者集団から、さらなる弱者を抽出してしまう。

・ゲーム世代の死生観

もしも彼らが本当に死のリアリティに鈍感なら、どんどん勝手に一人で死ぬだろう。しかし実際には、死にたい思いを抱えながら死ねずにいる若者が数十万人規模で存在するのが現実だ。だからこそ、彼らは、他者によって自殺の動機付けを固めてもらおうとするのではないか。

・主張する弱者

対象が「ものいわぬ弱者」である場合、私たちは無言の余白に美談という物語を投影しつつ、ストレートな愛を差し向けることができる。しかし今回のように「主張する弱者」に対しては、私たちの愛もまた屈折したものになるほかはない。しなわち誹謗中傷であり、罵詈雑言であり、バッシングの嵐である。(中略)
このように愛の対象との遠近法を誤ることを、精神分析は「倒錯」と呼ぶ。

・いじめの正当化

いじめの加害者は、自らのいじめ行為の正当性を確信しているときに、最も残虐性を発揮する。このとき「正当性」を強化してくれるのは、ときには教師ですらうっかり口にする「いじめられる側の責任」という言葉だ。そう、この言葉こそは、今回濫用された「自己責任」と同様に、私たちの倒錯した愛を正当なものに偽装してくれる。

・護憲派

そう、その意味で、私は護憲派である。ひとがまっとうに生きるうえで、「うしろめたさ」や「居心地の悪さ」は欠かせない、と信ずる限りにおいて。

・テロ対策

精神分析的にみた場合、危機管理意識は猜疑心なくしては成り立ちにくく、しかも猜疑心は攻撃性と表裏一体であるということだ。猜疑心が強ければ攻撃性も高まり、強力な攻撃力を持つことは、いっそう猜疑心をつのらせる原因になる。

・メディアは犯罪を助長するのか

裁判官や条例改正論者が提唱する「有害なわいせつ性」なる社会通念が、青少年の犯罪者に、格好のいいわけを提供しているのではないか。
(中略)
メディアは性衝動を伝達しない。メディアが伝達するのは「性を取り扱う態度」という、コンテクストのほうである。その意味で、性表現が性衝動をもたらすのではない。「性衝動は性表現の影響のせいにしてよい」という態度だけが確実に共有されていくのだ。

・三十九条を削除すべきか

鑑定経験者として言うのだが、犯行当時の心身喪失状態を正確に判定するための、いかなる確実な手段も存在しない。

・精神医学業界での成人

精神医学業界では「オトナは三十歳から」が二十年以上前からなかば公式見解である。

・若者市場

モラトリアムに留まる大量の成人を養いうるほどの経済的インフラが成立し、民主化とともに「大人の特権性」が希薄になる。むしろ市場は、純粋な消費者である若者を持ち上げ、メディアは若者に媚び続けるだろう。

・「本当の自分」との距離感

自己のイメージとのシニカルな距離を維持できなくなると、人は既成の自己像に縛られる。(中略)かくしてもたらせれる、「ダメな自分はダメなままである」という信念は、行動や他者との出会いへの意欲を徹底して抑圧するだろう。そうした抑圧が緩慢な衰弱死や集団自殺を呼び込んだとしても、もはや私は驚かない。
「本当の自分」などありうるのかという懐疑のもとで、それでも自己に執着し続けること。必要なのは、こうしたシニシズムを通じて維持される無根拠な自信ではないか。

・おわりに

自分を根拠づけるために自分自身を傷つけること。このことは何を意味するのだろうか。まだ私なりの解答は出せていないが、これはひょっとすると、「自分」というものの固有性が、しばしば傷として刻印されるという、トラウマ理論の本質にかかわるような示唆をはらんだ事態なのかも知れない。