- 内田 樹
- 先生はえらい
今年に入ってから内田樹先生のブログ を読むのを楽しみしている。そのあたりの新聞や雑誌の記事よりも読みごたえのある内容を毎日のように更新。只者ではないなという思いは、本書を読んでさらに確信した。
・はじめに
もしあなたが「人生の師」と出会った後になってもまだ「先生と出会ったのは、まったくの偶然であった」と思っていたとしたら、残念ながら、あなたが出会ったのは先生ではありません。先生というのは、出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人のことです。これが「先生」の定義です。
この本は「あなたが『えらい』と思った人、それがあなたの先生である」という定義から始まるわけですから、「先生はえらい」というのは、本が始まった瞬間に既決事項なんです。残るすべての頁は、「人間が誰かを『えらい』と思うのは、どういう場合?」という「えらい」の現象学のために割かれることになります。
本書でいう「先生」は学校の先生ではなく「人生の師」であって、しかも「えらい」ということは決定事項。なんだかタイトルからイメージする内容とはまったく違ったものだった。だが、読み進めていくと、僕が最近読んできた読書論と繋がるものがある。
一冊の本を読み込んで自らの古典とするということは、その本を「えらい」と思って「先生」のように接することと似ている。似ていいるではなく、まったく同じものだと言い切ることができそうだ。
ちなみに、この「ちくまプリマー新書」は昨年創刊され、本書はその第一回配本。中高生を読者層と想定した内容。普遍的なテーマに対する入門書(プリマーは入門という意味)として分かりい文章で書かれていて、ページ数も少なく読みやすいものとなっている。装丁はクラフト・エヴィング商会。
以下、個人的に気になった文章。
・恋愛と学び
「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。
「尊敬できる先生」というのは、「恋人」に似ています。
・教習所とF-1ドライバー
学ぶというのは有用な技術や知識を教えてもらうことではありません。だって、シューマッハにアクセルワークを習ったときに、あなたは彼が何を言っているかぜんぜんわからなかったはずですからです。言ってることが、むずかしすぎて。何を言っているのか、ぜんぜんわからなかったにもかかわらず、というか、何をいっているのかぜんぜんわからなかったゆえに、あなたは彼から本質的なことを学ぶことができたのです。
(中略)
それは、「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」です。この二つが「学ぶ」ということの核心にある事実です。
・学びの主体性
私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識を技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。
私たちが先生を敬愛するのは、先生が私の唯一無二性の保証人であるからです。私たちが「この先生から私はこのことを教わった」と思っていることは、実は私が「教わったと思い込んでいること」であって、先生の方にはそんなことを教える気がぜんぜんなかった、ということがあります。というか、教育とは本来そういうものなんです。
生徒は自分が学ぶことのできること、学びたく願っていることしか学ぶことができません。
・オチのない話
あなたが「自分はほんとうはどういう人間なのか」を思い出したのは、あなたが「自分はほんとうはどういう人間なのか」を知ってほしい人に出会ったからです。
・他我
「今の私」というのは、無数の「私がそれであったかもしれない私、私がそうなるかもしれない私」を控除した「残り」です。そういう無数の「可能性としての私」を縦横にずらりと並べてはじめて、「今、ここにいる、当のこの私」がとりわけ何ものであるかということが言えるわけです。
それを聴く用意のある人間に出会うまで、私たちは自分の「ほんとうに言いたいこと」をことばにすることができません。
私たちは聴き手はら愛情や理解や敬意を獲得するために、自分の過去について語ります。未来への志向を含まない回想は存在しません。
・前未来形で語られる過去
あなたが話したことは「あなががあらかじめ語ろうと用意していたこと」でも、「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」によって創作された話なんです。
・原因と結果
気分のよい対話では、話す方は「言うつもりのなかったこと」を話して、「ほんとうに言いたかったことを言った」という達成感を覚えます。聴く方は「聴くつもりのなかった話」を聴いて「前から聴きたかったことを聴いた」という満足感を覚えます。言い換えると、当事者のそれぞれが、そんな欲望を自分が持っていることを知らなかった欲望に気づかされる、という経験です。まさしく、それを経験することが、対話の本質なんです。
・口ごもる文章
ことばと思いがうまく合致しない。その「言いよどみ」や「口ごもり」がそのまま表現された文章は、「いい文章」であるかどうかは別として、少なくとも「扉が開いた」文章である可能性は高いと思います。(中略)そういう文章は論理的ではないけれど、どこかにたしかな条理が通っている。
・誤読のコミュニケーション
「わかる」ことは、コミュニケーションを閉じる危険とつねに背中あわせです。
・誤読する自由
もちろん「何を言っているのか、よくわからないだけの文章」を書いても誰も読んではくれません。逆に「何を言っているのか、すらすらわかる文章」を書いても、誰も二度と読み返そうとは思いません。わからないけれど、何か心に響く。「たしかに、そうだ」と腑に落ちるのだけれど、どこがどう腑に落ちたのかをかっきりとは言うことができない。だから、繰り返し読む。そういう文章が読者の中に強く深く浸透する文章なのです。どうして、そういう文章が読者に強く、深く触れるかというと、そこに読者に対する信頼があるからです。信頼されている、あるいは解釈をゆだねられているという負託の感覚を読者が覚えるからです。
・誤解者としてのアイデンティティ
すべての弟子は師を理解することに失敗します。けれども、その失敗の仕方の独創性において、他のどの弟子によっても代替できないかけがえのない存在として、師弟関係の系譜図に名前を残すことになります。
・先生はえらい
師が師でありうるのは、師がいかなる機能を果たすものであるかを、師は知っているけれど、自分は知らないと弟子が考えているからです。弟子は、師は私の知らないことを知っているはずだと想定したことによって、何かを(しばしば師が教えていないことを)学んでしまいます。そして、何ごとかを学び得た後になってはじめて、その学習を可能にした師の偉大さを思い知るのです。学ぶのは学ぶもの自身であり、教えるものではありません。「それが何であるかを言うことができないことを知っている人がここにいる」と「誤読」したことによって、学びは成立するのです。
本書を読み終えて、とても納得してしまった僕は、内田樹は「すごい」と思った。「すごい」「えらい」。先生と呼びたくなるぐらいだ。僕が今年に入ってから読書論に関する本を何冊か読んでいたところに、偶然に古本屋で本書をみつけた。この出会いはもう偶然ではなく必然ではないのかと思わせるものがある…。