お山の妄想のお話です。
櫻井翔、25歳。
大企業の経営企画部勤務、都内のマンション
に高校生の弟と2人暮らし。
仕事は順調で出世コースに乗り、見た目も良
いので異性にモテモテで選り取り見取りの誰
もが羨むエリート。
そんな順風満帆に見える俺だが実は悩みがあ
る、それは弟との関係だ。
歳が離れた潤とは数年前に両親が海外赴任に
なった時から同居している。
昔はとても可愛くて俺に懐いていたのに最近
では当たりが強く、休日に部屋でゴロゴロし
ていると冷たい目で見られいつの間にか家か
らいなくなっている……
思春期だからか、それとも俺が気に障ること
をしたのか?
会話はおろか顔を合わせることも減り何故こ
うなったのか見当もつかない。
両親には余計な心配をかけたくないし、相談
する相手もいなくてどう対処すればいいかわ
からずお手上げ状態だった。
こんな生活が続き潤がグレて大学受験に失敗
したら、俺を信頼し潤を託して行った親に顔
向けできない。
どうしたものか……
帰宅時に色々考え込んでしまい気が付くと電
車の駅を一つ乗り過ごしてしまっていた。
また戻るのかとただでさえ仕事で疲れている
のに無駄な体力を使うとゲンナリしたが、い
い気分転換になると思い直し一駅歩いて帰る
ことにした。
***
知らない街を歩くのは気分が良い。
ほんの一駅なのに自分の住む街とは印象が違
って、こんな場所あったんだとか面白そうな
店とか発見が多く楽しい。
キュロキョロしながら歩いていると、突然良
い匂いが漂ってきた。
パンの焼ける芳ばしい香り、自然と足がそち
らに向かっていた。
香りに誘われ辿り着いたのは一軒のパン屋、
木をふんだんに使った外装は温かくほっとす
る雰囲気だ。
興味をひかれ硝子窓から中を覗くとパンは少
しだけしか残っておらず入ろうか迷う。
買うなら多くの選択肢があった方が良いと思
ったらからだ。でもその時、昼間に届いた潤
からのLINEを思い出した。
『学校帰りに友達とメシに行くから夕飯は自
分でなんとかして』
普段家事全般をしてくれている潤がそう送っ
てくるのだから晩飯が無いのは確実だ、なら
ば此処で調達するのが最適だ。
どうせなら明日の朝食分も買って潤に胡麻を
擦っておこう。
カランカランというベルを聞きながら店内に
入りパンを選ぶ。種類は少ないがどれも美味
そうだ、夕飯と朝食用に8つトレーに乗せレ
ジに向かった。
店中に溢れる良い匂いとふっくら美味しそう
なパン、腹ペコの俺はすぐにでも食べたい心
境なのだが困ったことに店員の姿がない。
無人販売?いや、きちんとレジがあるのだか
ら違う。それに店の奥から物音がするからき
っと人がいるはずだ。
「すみませ〜ん!!」
奥に向かい呼び掛けると、数回目で『は~い
』と返事がありバタバタと足音がした。
「お待たせしましたぁ~」
出てきたのは白いコックコートにブラウンの
衛生キャップを被った小柄な男性、きっと職
人さんだろう。
「えっと、お会計ですね」
「はい、お願いします」
レジを打ち丁寧にパンを紙袋へ入れていく。
「千円になります」
「えっ?!安くないですか??」
予めパン棚に表記された値段を計算していた
ので合計額の違いに驚くと、職人さんは『
お待たせしたのでサービスです』と笑う。
キャップとマスクで目元しか見えないが穏や
かな笑顔だと感じた。
少し垂れ気味で潤いのある優しげな瞳に目が
離せずにいたら、彼もこちらをじっと見ていた。
レジ前で見つめ合う男二人……
シュール過ぎるだろ、と目をそらしたが彼は
こちらを見たまま言った。
「お客さん顔色悪いよ?」
「えっ?そうですか?」
「うん、大丈夫?」
「平気ですよ。きっと腹の空きすぎです」
「そっか……あっ!ちょうどいいや、ちょっ
と待ってて」
言い残し一旦奥へと消え、少しして戻って来
ると小さな紙袋を渡された。
「これ試作のパンなんだけど持って行って」
「そんな、いただけませんよ」
「多めに作っちゃっておいらだけじゃ食べき
れないからね。廃棄したくないし迷惑じゃな
かったら持って行ってよ」
初めて来た客なのにサービス良すぎだ。
そうまで言われると断るのも気が引け、紙袋
からのスパイシーな匂いにも抗えず受け取っ
てしまった。
「ありがとうございます」
「大したものじゃないから気にしないでね」
お礼を言い会釈をし、後ろ髪を引かれるよう
な感覚に苛まれながら店を出た。
そして少し歩いて振り返ると、硝子窓の向こ
うで職人さんがまだこっちを見ていて急に恥
ずかしくなり早足でその場を離れた。
ドキドキと鼓動が高鳴るのは何故だろう
顔がカッカするのはどうしてなのか……
きっとそれは運動不足で鈍った身体に鞭を打
ち歩いているせいだ、それ以外ない。
あのパン職人にときめいてないし、照れて顔
が熱いなんて絶対に有り得ない。
顔もハッキリわからない、しかも男相手にそ
んな気持ちを持つはずがない!!と自分に言
い聞かせ帰路を急いだ。
全力で否定した、が。
あの笑顔が中々頭から消えなかった…
***
パン屋の名前は〖Four-leaf〗
紙袋には英字と四つ葉のクローバーが印刷さ
れている。幸せを意味するそれはきっと客に
贈るメッセージ。
確かにあの店のパンは美味しくて、幸せな気
分になる。
でもパンより心に焼き付いているのは職人の
優しい声と穏やかな瞳だ、どうしてもまた会
いたいと思ってしまう……
しかしそれをグッと我慢している、なぜなら
それは俺のアイデンティティ崩壊を意味する
からだ。
これまで異性を愛しノーマルだったのに、男
相手にときめくなんてあってはならない。
異端だと思っていたカテゴリーに己が属する
なんて考えたくなかった。
……でも、もう限界だ。
あの人に会いたい……
もう一度だけ店に行き、あの職人に会って自
分の気持ちを確認する。それでまた胸が高鳴
るのなら清く認めるしかない。
あの日から一週間後の朝、捨てられず残して
ある紙袋を見ながら決意した。
仕事を定時で終わらせ電車に乗り込む、いつ
もより早い時間なので車内はすし詰め状態だ
がそれも不快でないほど気持ちはパン屋へ向
いている。
一駅毎に『もうすぐ』と逸る気持ちはもう
『確定』を意味していて覚悟を決めた方がよ
さそうだった。
改札を抜けパン屋へとまっしぐら、木の外装
を目にして鼓動が激しくなる。
近付くにつれ店内が見えてきて目は無意識に
あの姿を探していた。
お客が三人、その内の一人はレジ前にいて精
算中。彼が既にいると思うと緊張で息苦しく
なる。止まりそうになる足を叱咤し店の扉を
開けるとレジから『いらっしゃいませ~』
と声をかけられた。
「 えっ……」
それは初めて聞くものでレジにいるのが職人
だと思い込んでいた俺は驚き声の主を見ると
そこにいたのはニコニコと愛想が良い高校生
くらいの男の子だった。
サッと店内を見回して職人がいないと分かる
と、落胆なのか安堵なのかわからない複雑な
心境になる。
取り敢えず第二の目的であるパンを選び、客
が引いた時に彼のことを訊こうと決めた。
***
「パン職人?それっておじさんのこと?」
俺以外の客がいなくなったのを見計らいレジ
に向かい尋ねると、逆にそう訊かれた。
「その人、おじさんって年齢じゃなかったけ
ど…」
「あ~、確かに実年齢はね。でもおじさんぽ
いんですよ。で?何の誤用です?」
「以前パンを頂いたのでお礼を言いたくて、
いらっしゃるのなら呼んでもらえませんか」
そう伝えると店員はジロジロと探るように俺
を見た。
「本当にそれだけ?」
不躾に言われ心を見透かされたようで内心焦
ったが、社会で培ったスキルを発揮し平常心
を装う。
「それだけですが、逆に何かあります?」
「えー、まあね。あの人凄く人受けが良くて
トラブっちゃうこともあるんで」
「そうですか……」
「お客さんは…」
「何か?」
「おじさんが好きそうなビジュだから、会わ
せてあげるよ」
「は??」
店員の言葉に引っ掛かりを覚えたが、会わせ
てくれると言うので黙っていた。
「ちょっとお待ち下さいね~、おじさ~ん!
イケメンが呼んでるよ!」
奥に向かい店員が叫ぶと『なんてー??』と
返事がある、待ち望んだ声だ。
「耳まで遠くなったの?連れてくるんで少し
待ってて下さい」
ここで待てと指示し店員は店の奥に入ってい
き、暫くするとあの日のパン職人がエプロン
で手を拭きながら出てきた。
「おいらに用って?」
彼が顔を上げるとバッチリと目が合った。
その瞬間、潤んで輝く瞳に心拍数が爆上が
りた、そしてもう以前の俺ではないと確信
した。これはやはり恋……
「あの、以前閉店間際に来て値引きと試作品
を頂いた者です」
「試作品……ああ!あの時の男前!!」
容姿を褒められるのは慣れていて普段は何と
も思わないが、目の前の人の言葉は素直に嬉
しく照れくさかった。
「試作のパンどうだった?餡はホウレン草の
カレーだったんだけど」
「美味しかったです。でもホウレン草は柔ら
かくて歯応えがないのでカレーパンの具には
不向きかもしれません」
「やっぱそう?おいらもそう思って失敗作を
あげたの後悔してたんだ」
『ごめんな』と謝られ率直に言ってしまった
ことを悔いた。この場面で職業病が出てしま
うなんて最悪だ、善意で頂いたものにダメ出
して嫌な奴だと思われても仕方ない…
「すみません、失礼な事を言って…」
「失礼??そんなん全然思ってないよ、逆に
ありがたい」
「えっ?」
「常連さんとかに試作品を渡してどうだった
か訊くんだけど、気を使ってくれて『美味し
かった』としか言わないんだ。そうすると改
善点がわかんなくて商品化が難しくなるの。
だから言ってもらえて嬉しい、もしよかった
らこれからも試作の評価してもらえる?」
「はい!俺で良ければ!」
これは瓢箪から駒?棚ボタか?
いずれにしろ願ってもない話だ。
幸先の良いスタート、これからもっと親しく
なっていずれは告白したい…
社会的地位や世間体などのリスクは全く気に
ならず、ただ欲しくて欲しくてたまらない。
こんな気持ちは初めてで自分が情熱家だった
ことをこの時知った。恋だと自覚した途端貪
欲な欲望が湧き上がり、頭の中で得意な『ス
ケジュール』を組み始める。
まずは面識を持った、次はただの顔見知りで
はなく『俺』という個を認識してもらう。
そうすれば早い段階でもっと親しくなれるは
ずだ。
「俺、櫻井翔といいます」
「イケメンにピッタリな名前だねぇ」
「いいえ、そんな……あの…」
「ああ、おいら?おいらは大野智っていうの
一応ここのオーナー」
「何とお呼びすれば?」
「ん?好きに呼んで、皆そうだから。ニノは
おじさんって言うしね」
目を細めて話すので呼び方は本当に気にして
いないようだ。でも馴れ馴れしくするのはま
だ早い、好印象を持って欲しいので先ずは礼
儀正しくしなければ。
「大野さんと呼んでもかまいませんか?」
「全然いいよ。そんじゃおいらは櫻井さんっ
て呼ぶね」
「はい、これからよろしくお願いします」
「よろしく~」
ほんわかと穏やかな空間にいつまでも包まれ
ていたかったけれど、来客を告げるドアベル
に反応して出てきた店員に大野さんは奥へ戻
されて強制終了となった。
俺も『用が済んだならさっさとお帰りくださ
い』と追い出されすごすご店を後にした。
家まで20分は歩くけれど全然苦には思わな
い、きっとこれから何回もこの道を通ること
になるのだから。
抱えた紙袋から良い香りがして、彼の優しい
目元を思い浮かべる……
それだけでもう幸せな気持ちになれるんだ。
「大野さん……あとどれだけ通えば名前で呼
べるようになるのかな」
今年中…いや、遅くても数ヵ月の間にはそ
う呼べるほど親しくなりたい。
それには頻繁に通うしかないだろう。
「明日の昼休みにウォーキングシューズを買
いに行くか」
頭の中で靴屋を検索し、ウキウキしながら帰
路を急いだ。
毎日パンは太るよね