お山の妄想のお話です。




鰻を買った。

手伝っている寺子屋から給金が出たんだ。

ほんの僅かだが自分で稼いだ金で大切な人と

旨い物を食べたかったので奮発した。



表通りの脇の路地に入ると、そこには庶民の

暮らす裏長屋がある。

狭く粗末な居住空間が連なり老若男女大勢が

暮らす人情味溢れ賑やかな場所、その中の一

部屋が愛しい人の住居だ。


「ただいま!」


入り口の障子を開けると奥の六畳間に寝転ん

でいた人が俺の声に反応してごろんと身体の

向きを変えた。


「お帰り~」


ほにゃりと癒される笑みで迎えてくれたのが

この家の主であり恋人の智君だ。


「見て!鰻を買って来たんだよ!」

「おお~スゲエなあ」


畳に上り智君の鼻先に包みを寄せると、ふん

ふんと匂いを嗅ぎ『いい匂いだぁ』と嬉しそ

うにまた笑う。


そんな姿が可愛くて抱きしめたくなったけど

我慢した、それは今晩にとっておくんだ。


「そうだ、今日品物を納めに行った先の奥様

に良い酒をもらったから鰻をツマミに一杯や

ろうぜ」

「あれ完成したんだ、だからのんびりしてた

んだね」


飾り職人を生業とする智君は腕が良く注文が

引っ切り無しに入る、今回は武家の奥方から

のものだったらしい。


「何日もかけてやっと出来たからな~我なが

ら良い出来だと思った」

「そっか、じゃあ完成したお祝いだね。でも

お酒は少しだけね」

「うん??なんで?」


呑む気満々の智君にやんわりと釘を刺す。

どうして?と首を傾げる彼に俺は含みをもた

せ言った。


「俺も明日は休みなの。だから今夜は久しぷ

りに………いいよね?」

「えっ………」


その言葉にピンときたのか智君は頬を赤らめ

た。言わんとしていたことが通じたらしく、

内心ほくほくと喜ぶ。


俺がここに転がり来んで一月半経ったが、

恋人と肌を重ねたのは数回しかない。

智君は仕事が入ると食事も忘れるくらい没頭

するので疲れて夜は爆睡なんだ。


そんなだから無理をさせまいと我慢してきた

けど納品を済ませたならいいだろう。

明日は俺も休みだから、朝までじっくり愛を

確かめ合っても問題ないし。


「駄目?智君はしたくない?」


中々返事をくれないので急かすように問うと

はにかみながらも同意してくれた。

今晩は久方ぶりの愛の営みだ、精のつく鰻を

買って正解だった。



その夜は濃密な時を過ごした。

愛しい身体の隅々まで舐めいくつもの所有の

印をつける。そして敏感な場所を責め、時に

は焦らして乱れる姿を堪能した。

愛を確認した最高の時間だった。


…………しかし、腑に落ちないこともある。

それは最中に智君がほとんど声を上げないこ

とだ。

何度も抱いた身体で感じる場所も把握してい

るから悦くない訳じゃないはずなのに、喘ぎ

を噛み殺すように口を閉ざす。


前はもっと奔放に声をだしていたのに……

何か理由があるのか?

それとも俺が思い上がっているだけでそれほ

ど快楽を感じていないのか……


どうしてなのか理由が知りたい。

でも俺の名前以外を口走りそうで堪えている

なんて言われたら立ち直れない……

そんな事ありえないのは承知してるし智君を

信じてるけど、最悪を考えたら無闇に訊くこ

とは出来なかった。



「智、いるかい?」


ガタガタと建て付けの悪い戸を開けヒョコっ

と顔を出したのは右隣に住む和だ。


「いるよ~、どうした?」

「あのな、今晩久しぶりに若旦那が来るんだ

よ。それで迷惑かけるかもしれないから」

「雅が?だいぶご無沙汰だったな」

「大旦那に商談を任されて二月程上方にいた

からね。それを何とか成立させて昨夜こっち

に戻ってきたのさ」

「戻ってすぐに会いにくるのかぁ。惚れられ

てるな」

「相手をしてくれる人が他にいないから私の

所に来るんですよ」

「んふふ、照れちゃって可愛いな」

「馬鹿をお言いでないよ、あんたの方がよほ

ど愛されてるじゃないか。交際を反対されて

大店の若旦那が家出までするんだから」


ニヤリと笑って俺を見る。

和の言うとおり俺は大通りに店を構える呉服

屋の倅で、智君との付き合いに難色を示しど

こぞの娘との縁談を進める親に反発して家を

飛び出した。


俺に必要なのは大店なんかじゃなく、愛する

智君だけだから躊躇などなかった。

全く後悔してないし自分を誇りに思う。


「どれだけ智が愛されてるかは昨日の晩によ

くわかりましたしね」

「ちょっ、マジで?」

「ええ、だから今晩騒がしくてもお互い様で

勘弁して下さいね」

「わかってるよ~」

「じゃあ、よろしく」


そう言い残し和は隣へと戻った。

朝っぱらからバタバタしていたのは情人を迎

え入れる準備だったようだ。


「和のお相手も商いをしてるの?」

「うん。翔の店からはだいぶ離れてるから知

らないかもしれないけど、結構幅広く商売し

てるみたいだよ」

「智君はそいつの事知ってるんだね」

「和の所にちょくちょく来るからな」

「ふ~ん……」

「雅は良い奴だよ、たぶん顔を出すだろうか

ら仲良くしてやってくれよ」

「………うん」


和の恋人とはいえ、知らない奴と親しくして

いるのが気に入らなかった。



雅は夕方に和と来て小一時間談笑した。

風采が良く気風もいい男で、商家の生まれや

愛した人が同性などと共通するものが多く直

ぐに打ち解けた。

でも帰り際の言葉が意味不明だった。


「翔ちゃん、今晩迷惑かけるけど許してね」


和から離れ、すすっと寄って来たかと思えば

そんな事を耳元で囁く。


「は?迷惑って何だ?」

「も~トボケないでよ~わかってるよくせに

~」


別にとぼけてはいないが意味がわからない。

そんな俺の背中をバンバン叩き『うるさくっ

ても我慢してね。野暮はなしだよ!』などと

言ったんだ。


酒を飲んでドンチャン騒ぎでもするのか?

と思っていたがそれは違ったようだ。



夜も更けた頃、壁の向こうから音が聞こえ始

めた。


最初はヒソヒソとした話し声、次に布擦れの

音、それから間もなくして肌のぶつかり合う

音や我慢したような押し殺した声、そして甘

い喘ぎなど情事の場面で立つ音が次々と聞こ

えて来たんだ。


薄い壁の向こう側で何が成されているか即座

に理解した。

いくら貧相な造りでも、まさかこんなにも筒

抜けだなんて思っていなかった。


知り合いのよがり声を聞くなんてとてもばつ

が悪い。盗み聞きではないが、いたたまれな

くて眠れない。

布団の中でもぞもぞ動いていると、隣で寝て

いた智君が突然ムクリと起き上がった。


「あっ、ごめんね。おこしちゃった?」


取りあえず謝ってみたが智君は無言で枕元に

置いてあった巾着の中を探り始め、何かを取

り出すとそれを渡してきた。


「なに?これ?」


掌にその物体の重みは感じない、感触はほわ

っとしている。


「………綿。耳に詰めとけ」


言いながら両手を擦り付け綿を丸く形成して

両耳に詰めていく、これは耳栓なのだろう。


「えっ?!あの、智君??」

「詰めときゃいくらか静かになる、後は布団

を被ればどうにか寝れるよ。おいらはいつも

そうしてるし」


『じゃー、お休み』と言い、そのまま布団

にくるまりアッという間に眠ってしまった。

いつも、と言っていたから慣れている?

というか慣れる程頻繁なのか???


どうにも気になり智君のようには眠れない。

耳に綿を詰め布団を被っても隣からの悩まし

い声は聞こえ続けた。



翌朝、殆ど眠れなかった俺がボーッとしなが

ら井戸に顔を洗いに行くと、そこには数人の

おかみさん達が集まり朝食の準備をしていた

女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、

随分賑やかな井戸端だ。


「おはようございます」

「あら、翔さん。随分なクマだねぇ」


寝不足で酷い顔の俺におかみさんの一人が話

し掛けてきた。


「ちょっと寝不足で……」


そう答えると、合点がいったとばかりにポン

と手を打つ。


「ああ、昨晩は和ちゃん所がお盛んだったか

らか。あんたは隣だものね」

「えっ?」

「そうよね。色っぽい声が一晩中聞こえて、

つい家もその気になっちゃったもの」

「ええっ?!」

「あら?何を驚いてるのさ?こんなにボロい

長屋だよ?壁も薄いし家の中で何をしてるか

なんて回りに筒抜けさね」

「驚くのも仕方ないよ。今まで翔さんは立派

なお屋敷暮しだったんだから」


俺は言葉を失った……

確かに家の中にいても近所の音が聞こえてき

ていたが、それは生活音だったので大して気

に止めなかったんだ。


「じゃあ、家の音も皆さんに筒抜けだったの

ですか?」


俺と智君の情事も聞いていたのかと、恐る恐

る訊くと


「さとちゃん所はいつも静かだね」

「あんたが来る前と大して変わらないよ」


などと返ってくる。

どうやら一昨日のまぐわいは誰にも聞かれて

いないようで安心した。

聞かれていたら今のように井戸端会議のネタ

にされていただろう。


「でも、あんたさとちゃんと恋仲なんだろ?

だったら悦ばせてやらなきゃいつか捨てられ

ちまうかもよ」

「はは、頑張ります…」


余計なお世話だと言えず、作り笑いでその場

を退散した。



家に戻ると丁度智君が起きたところで、耳か

ら綿を取り出していた。


「おはよう」

「おお、早いな」

「今日は寺子屋の仕事があるから」

「そっか、じゃあ早く朝飯準備しなきゃ」

「待って、話があるんだ」


布団をたたもうとする智君を止め、向き合う

ように座る。

そして昨晩からの出来事やさっきの井戸端会

議から閃いたことを尋ねてみた。


「ずっとおかしいと思っていたんだけど、

同衾した時あなたが声を殺すのは近所に聞か

れないようにするためなの?」

「やっぱ気にしてたんだな…」

「うん、だって前は感じた時には声を上げて

くれてたでしょ?でもここのところ全然聞け

なかったから」

「ごめん、実はそうなんだ。ここは壁が薄い

から大きな声を出すと全部聞こえちまう。

夜の営みがどんなかを近所に知られるのが嫌

で声を抑えてたんだ」

「やっぱりそうだったんだ…」


推測は正しかった、羞恥心から声を出せなか

ったんだ。

まさか俺もあれほど音が筒抜けだと思わなか

ったので、声を聞きたいがためにしつこくし

たのを反省した。


「俺こそごめん…周りの事なんて全然気に

してなかった。ここには沢山の人が住んでい

るんだもの気をつけるべきだった」

「翔はこんな所での生活は初めてだもの仕方

ないよ、気にすんな。それにおいら達のまぐ

わいは今のとこ和にしか聞かれてねぇみたい

だし」


どんなに噛み殺しても微かに隣には響いてし

まったらしいが、おかみさん達の会話によれ

ば向かいに建つ棟割長屋の方には届いてはい

ないようだ。


「おいら今までこの部屋でしたことがなくっ

て聞かされる一方だったけど、いざ自分がそ

うなると目茶苦茶恥ずかしくて。だからこれ

からも声は出さないけど、翔とするのは幸せ

だし好きだから安心してくれ」

「………智君」


羞恥心から声は出せないが俺とはしたいなん

て………なんていじらしいんだ。

だけどそれじゃ智君は楽しめないし、やはり

感じた時は素直な声が聞きたいよ。


まだ店にいた頃は料理屋の部屋を借りて逢瀬

を重ねていたから気にすることはなかった。

ここではどうしても限界がある………


智君と幸せに暮らすにはどうすればよいか

真剣に考える必要があった。



考えた末、家に戻ることにした。

飛び出した手前みっともないが、店で働き金

を稼ぐことにしたんだ。


幸い親が進めていた縁談は破談になっていた

し、両親も俺の家出に相当衝撃を受けたらし

く智君のことをとやかく言わなくなった。


当分の間は長屋に通い、するのは以前のよう

に料理屋にし、金を貯めゆくゆくは智君のた

めに家を買うつもりだ。


街中で隣家との間が充分ある物件は結構な値

がするが、二人の愛の巣のためだから我武者

羅に頑張ろうと思う。








おわり








智や和は割長屋住まい

謎の江戸時代設定