お山の妄想のお話です。
薄い硝子のはまった古い木枠の小さな窓を少
し開けると、バシャバシャと水滴が顔を直撃
した。
外は相変わらず土砂降りの雨、一向に止む気
配はない。空には暗雲が立ち込め雨足は酷く
なる一方だ。
これでは当分ここに足止めだ、もしかしたら
今日中に家に帰るのは無理かもしれない。
そう考え重い気持ちで外を見ていると、名前
を呼ばれた。
「翔くん、濡れるから窓閉めろよ」
「あ!ごめんね。そっちまで吹き込んだ?」
「違うよ、翔くんがびしょ濡れになるって言
ってんだよ」
言われてみれば髪や顔がグショグショだ、
この小屋で雨宿りをして少し乾いたのに…
「外なんて眺めたって仕方無いだろ、こっち
に来て座ってろよ」
「そうだね……」
俺は建て付けの悪い窓をガタガタと閉めてか
ら智君の隣に座った。
土間の上にレジャーシートを敷いただけだか
ら硬くて冷たい、そんな所に想い人を座らせ
ているのが申し訳無い…
「こんな事になっちゃって…ごめん」
「天気が悪くなったのは翔くんのせいじゃな
いだろ。気にすんなよ」
心苦しくて謝ると逆に慰められた、俺の好き
な人は本当に優しい。
楽しい1日にしようと計画を練ったのに、
まさか大切な人をこんな山奥の古く汚い小屋
に滞在させることになるなんて思っていなか
った。
*
「山の日は山へ行かない?」
休みが重なるその日に遊びに行こうと以前か
ら約束していた。
「いいけど……何すんの?」
「俺達仕事三昧じゃん、たまには都会を離れ
大自然に癒されるのもいいんじゃない?」
「それで山?」
「うん。登山とかじゃなくってハイキング。
前にロケに行った山に穴場のハイキングコー
スを見つけたんだ。クルッと山の回りを一周
するコースだけど、途中に小さな滝とかある
みたいなんだ」
「へぇ、この頃運動不足だからいいかも。
でも人が多いとヤバイね」
俺達は有名人なので見つかれば騒がれる恐れ
があり、そうなれば周りの人達の迷惑になる
智君はそれを危惧しているようだ。
「穴場だから人なんて殆どいないよ、観光す
る場所もないただの田舎の山だし。そのハイ
キングコースも地元の子供達が遠足で歩くぐ
らいだって現地のコーディネーターも言って
いたから」
そこに関してはリサーチ済み。
折角の休日に人が多い場所になんて行きたく
ないからね。折角だから二人だけで山の綺麗
な空気を吸いたいじゃない。
「そうなの?じゃ安心だね」
「うん!お弁当とか持って行こう」
こうしてハイキングに行く事に決まった。
当日の朝は現地に10時頃に着くように早めに
出発した。
助手席からの可愛い寝息を聞きながら楽しい
1日になると期待していたのに…
*
ハイキングコースのスタート地点である山の
上の公園には予定の時間に到着した。
駐車場には他の車は無く人の気配もないので
安心し、気兼ね無くハイキングへと出掛けた
ハイキングコースといっても人一人通れるほ
どの獣道で、あまり管理されてないのか途中
で崩れていたり土砂で遮られたりしていた。
これはハイキングと言うよりサバイバルみた
いだね、なんて言いながらも二人で楽しく歩
いていたんだ。
昼食は滝の側で食べた。
涼しくて、滝壺は水が澄み泳ぐ魚の姿も見え
たから智君も喜んでくれた。
靴を脱ぎズボンを捲り上げて入った水は冷た
くて、『冷めて~』なんて騒ぎながら相手に
掛けて遊んだりもした。
キラキラ輝く水面、それに負けない位の美し
い笑顔で楽しそうにはしゃぐ智君のキュート
な姿を見て、俺は来て良かったと感慨無量だ
った。
しかしほどなくして事態は一変した。
コースも中盤に差し掛かった頃、突然天候が
悪化したんだ。
『山の天気は変わりやすい』とよく聞くけど
それは高山だけだと思っていたのに。
瞬く間に青空は厚い雲に隠され、そして大粒
の雨が降り出し慌てて大きな木の下に逃げ込
んだ。そこで暫く様子を見ることにしたが、
遠くからゴロゴロと天鼓まで聞こえて来たの
で落雷の危険を避けるために少し先に見える
小屋に移動した。
近づくとその小屋は辛うじて雨風が凌げる程
のボロボロさだった。
中には何もなくとても埃っぽくカビ臭い、そ
れでも外にいるよりはマシだ。
持っていたレジャーシートを敷き荷物を置い
てから、濡れた上着やズボンを脱ぎ乾かすた
めにビニールテープを張って干した。
それからタオルで体を拭き、不足の事態を想
定して持って来ていたエマージェンシーシー
トに包まった。
*
「……大丈夫?寒くない?」
「うん…」
智君は大丈夫だと頷くけど、湿ったTシャ
ツやパンツを身に付けたままではこんな薄手
のアルミシートじゃ大して温かくならない。
「雨に濡れただけでこんなに冷えるなんて思
ってなかった…」
「山の中だしやっぱ街とは違うな。でも良い
経験になるよ、生きて帰れたらね」
「馬鹿なこと言わないで、俺の命に代えても
あなたを守るから!」
「ふふ、 ムキになるなよ」
冗談だよと笑うけど、智君が震えているのが
寄せた肩から伝わってくる。
痩せていて体脂肪率が低いから俺より寒さを
感じているのだろう。
大事な智君に風邪を引かせるわけにはいかな
い、それに明日からも仕事のスケジュールは
一杯で穴をあけることは出来ないんだ。
兎に角体を温めなくては……
しかしここには火を起こせる物もないし、
温かい飲み物も持っていない。
打つ手は無いかと考えていてピンときた。
テレビのドラマなんかでよくやるアレがある
じゃないかと。
裸で抱き合いお互いを温めればいいんだ。
早速智君に提案してみた。緊急事態だし一応
恋人同士だから断られないと思っていた。
「えっ……裸で?」
「温まるためにはそれが一番なんだ、もしか
して嫌なの?」
「パンツは履いてていいんだよな?」
「パンツも濡れてるし脱いだ方がいいよ」
「…………」
智君は渋い顔をしている……
パンツを脱ぐのが嫌なのかな、警戒してる?
流石の俺もこの状況で下心はないけど…
でも恋人同士とはいえ、俺達はまだ身体を繋
いだことがないから戸惑っているのかな。
「嫌かもしれないけどお願い。あなただって
体調不良で仕事に穴を開けて迷惑かけたくな
いでしょ?」
「……うん」
「あなたが嫌がることは絶対しないから」
「そんなの知ってるよ……ただ恥ずかしかっ
ただけ」
恥じらう智君が可愛くて抱きしめたかったけ
ど、舌の根も乾かぬうちにそれはマズいと自
制した。
「よし、んじゃ脱ぐぞ」
そう決めると躊躇無く身に付けている物を脱
ぎ始める。なんて男らしいのだろう、ますま
す惚れてしまうよ。
俺も下着を脱ぎそれを干してから智君に向け
大きく腕を広げた、するとそこに愛しい人が
飛び込んでくる。
至福の時……
素肌でしっかりと抱き合い、二人分のアルミ
シートで身体を包んだ。
すると直ぐにホカホカと温かくなる。
目の前には柔らかい髪、そしてしっとりとし
た肌の感触……
邪な気持ちなんて無い筈だったのに、そんな
ことを意識し始めたら腹の奥が熱をもってき
てしまった。
智君の裸なんて何回も見ているし、ライブの
後なんて俺のシャワーブースに乱入して来た
こともあるくらいだ。
そんな時は性的なものを一切感じなかったけ
れど、いまはちょっとマズい感じだ。
……少しだけ離れるか。
あらぬ所が元気になってしまったら言い訳で
きない、嫌われたら最悪だ。
そう思い少し身動ぐと、なんと智君が抱き付
く力を強めてきたんだ。
「あ……えっと、智君、ちょっと暑くない?
少し離れようか?」
困って言ってみたけど離れてくれない……
これは……誘われてる??
いや、智君は天然だからわからないぞ。
さっき嫌がることはしないと言った手前、迂
闊に手を出せない。
もしかして俺は試されているのだろうか?
これは愛の試練か?だったら素数を数えて落
ち着くしかない。
痛みと素数で気をそらそうと下唇を噛み、脳
内で2、3、5、7……と数え始めた時腕の
中の人が俺を呼んだ。
「……翔くん…」
「ん?どうしたの?」
「おいら…寒いよ。もっと温かくして…」
その言葉に心臓がドキリと鳴った。
いや驚きで一瞬止まったかもしれない。
「ええと、そ、それって…」
「しようぜ……嫌か?」
「嫌じゃないよ!?でも、どうして突然?」
今までは部屋で良い雰囲気になっても智君は
それを許してくれなかったのに……
「……だって、もしかしたら俺達ここで死
ぬかもしれないだろ。だったら思い残す事が
ないようにしたいんだ」
「ちょ、ここで死ぬなんて……」
絶対に有り得ない。
携帯の電波はあるから助けは呼べるし、そも
そもハイキングコースだから雨さえ止めば自
力で車まで戻れる。
……でも、それを言うのは止めた、智君も分
かっているはずだから。
なのに誘って来るのは、これを良いチャンス
だと思っているからだろう。
通常の生活では無理でも、非現実的な今の状
況なら受け入れられるのかもしれないな。
雷雨の中、山奥の小屋に二人きり、誰にも見
られない知られない安心感があるのかも。
「本当にいいの?」
「……いいよ」
「床……硬いよ?身体が痛くなるかも」
「平気だよ、だから早く温めて…」
ねだるように言い、智君はそっと俺の唇を食
んだ……
「智くんっ!」
そこで俺の中の何かがプツリと切れ、呆気な
く自制心を失った。
*
「と、いうシナリオ。これは自分で言うのも
アレだけど絶対に上手く行く!」
レポート用紙に書き上げた脚本を惚惚と眺め
た。これは山の日に智君と出掛けるために書
いたものだ。
この通りに進めれば、その日に晴れて俺達は
結ばれる。今まで巧みに躱されていた体験を
する事ができるんだ。
心配なのは天候だけど、近頃龍神様を崇めて
いるからきっとお力を貸していただけるはずだ。
あとは智君をハイキングに誘うだけ。
これは全然大丈夫だろう、山の日にお出掛け
するのは了承済みだし。
ま、行き先はまだ言ってないけどさ。
*
楽屋でボ~と壁を見つめる通常運転の智君に
早速話しかけた。
「ね、今度の休みに行きたい所があるんだけ
ど付き合ってくれる?」
「うん?今度の休みって何時だっけ?」
「嫌だな忘れたの?!8月11日の山の日
だよ!」
「お~そうだった。で、どこ行くの?」
「山の日に因んで、ハイキングなんてどうで
しょう?」
「 山に?」
「うん、たまには自然を満喫しようよ。ハイ
キングコースも穴場だから人がいないし。
大自然に癒されるのもいいじゃない」
「大自然かぁ……」
智君は上を向き山の自然を想像しているよう
だった。口許が仄かに上がっているから楽し
い事を考えてるみたい。
これは絶対にOKが出ると確信したのに…
急に苦虫を噛み潰したような表情になり、
智君は言ったんだ。
「山は嫌だ」
まさかの御断り…
これじゃシナリオが丸潰れだ……
「どうしてさ!行く途中に美味しいパン屋と
ラーメン屋もあるんだよ?!」
どうしても『行く』と言って欲しくて予め調
べておいたスポットも発表した。
「……美味しいパン…ラーメン……」
興味がありそうな声音に乗ってきたかな!
と秘かに喜んだけど、智君はブンブンと頭を
振ってから『やっぱヤだ』と言う。
「なんで嫌なの?理由を言ってよ」
頑なな態度に、そんなに嫌がるにはそれなり
の理由があるだろうと思い訊くと、まさかの
回答だった。
「山には熊がいるじゃん。熊こえーし」
「 !! 」
熊……それは智君が恐れる最強の生物。
何ということか、俺は熊の存在を忘れていた
んだ。
「翔くんだって怖いだろ?」
「そりゃ、いれば怖いけど…」
「だから山はやめよう!夏だから海にしよう
ぜ!でもビーチには行けないから船釣りにし
ねー?船長に空いてるか尋いてみよーか」
「えっ??ちょっ……」
智君はスマホ片手に楽屋から出て行ってしま
った……
これって、海に変更になるの?
俺の渾身のシナリオは……
ワクワク初体験は……
*
山の日
よく晴れた空
その青空のように、俺と智君も清らかな関係
のままだった。
おわり
祝山の日