お山の妄想のお話です。
屋敷の書庫には誰でも入ることができる。
部屋で読みたければ持ち出しも可能だ。
だから使用人達もよく利用している、街から
遠く離れた山奥にある屋敷だから本を読むく
らいしか楽しみがないのだろう。
僕が書庫に行くのはお昼後の二時間程。
行けば必ず休憩時間を過ごす数人の召使かい
がいて、その中の一人と親しくなった。
初めは話しかけても身分が違うからと余所余
所しかったけど、何度も声を掛けるうちに打
ち解けたんだ。
「ねえ、蒼穹公爵って智君のこと?」
多分そうだとは思うけど、しっかりと確認し
ておきたくて訊いてみた。
「そうですよ。坊っちゃん御存知なかったん
ですか?!」
彼は僕の質問にとても驚いていた、何年も一
緒に暮らしているのに知らないとは思いもよ
らなかったのだろう。
「うん…智、君と教わっただけ」
「はは、何だか公爵様らしいですね。公爵様
は御身分を誇示なさるような方ではございま
せんから」
「でも長い間僕だけ知らなかったんだよ」
「多分必要無いと思われたのでしょう」
「幼い子供だったから?」
「それもあるかもしれません。ですが公爵様
は主従関係などをお気になさらない方ですか
らね」
他の屋敷のことは知らないけど、確かにここ
は智君と使用人の関係が良いと思う。
「他のお屋敷は厳しいの?」
「はい、ご主人様の仰有ることはどんなに無
茶なことでも絶対です。しかし公爵様はその
ような事を申し付けることもございませんし
それどころか私共を労って下さいます。
身分の高い方でそんなお振る舞いをされるの
は公爵様だけなのです」
その言葉に潤を思い浮かべた。
子供でさえあんなに高飛車なのだから、大人
は相当なものだろう。そう考えると普段ゆっ
たりと笑んでいる智君は全く異なる。
「ですからKINGより『蒼穹』と字(あざな)
を賜ったのです」
「蒼穹は字なの?なら僕が呼んでいる方が
本当の名前?」
「さあ……私にはわかりませんのでお答え
できません」
「ここで働いているのに知らないの?」
「はい。高貴なお方は本当のお名前を隠すも
のですし」
「じゃあ……本当の名前じゃないのかな」
「どうでしょう…でもそのお名前で公爵様を
お呼びになるのは坊っちゃんだけですし…」
「そうだけど」
今まで呼んでいたのが本当の名前じゃないか
もしれないと思ったら悲しくなった。
騙されたとは違うけど、信用されていないよ
うに感じたんだ。
落ち込む僕を見て失敗したと思ったのか彼は
慌てて言い繕う。
「そうお呼びになると公爵様は嬉しそうにな
さいます。坊っちゃんは特別なのだと思いま
すよ」
「……うん」
僕が「智君」と呼ぶといつも笑顔を向けてく
れるから、彼の言う通り特別だと思ってもい
いのかな……
そこまで話したところで休憩時間が終わり彼
は仕事へと戻って行った。
他の使用人達もいなくなり一人になると書庫
の奥へと向かう、そこは言葉を覚えるために
使ったものを含めヴァンパイアの文字で書か
れた本が沢山あるんだ。
「えっと……まずヴァンパイアがどんな種族
か調べよう」
背表紙を見てそれっぽい数冊を棚から引き抜
き中を開くと、そのうちの一冊が歴史書のよ
うなものだった。
読んでみるとまず真祖の記述があって、それ
にはヴァンパイアは自然界の精霊が変化した
とか魔術等によって変えられた者とあり、人
の血を糧とする種族だと記されていた。
「食事は血か……吸われたらどうなるの?」
そして血を吸われた者の末路は…
致死量を吸われ殺されるもしくはパートナー
や下僕として生かされる、だ。
……ゾッとした、あの時潤に血を吸われなくて
本当に良かった。
だってどちらにしても智君と一緒にいられな
くなるもの。
智君にこそ僕の血をあげたい。
最後の一滴まで捧げたいよ。
それで死ぬなら本望だ、だって智君の血や肉
になれるのだもの。
でも…本当は仲間にして欲しいんだ、離れる
こと無くずっと側にいたいから。
けれどそれは僕が決めることじゃない…
どうしたらいいのかな……
智君は僕をどうしたいんだろう?
きっとこの屋敷の中にいる人間は僕だけだろ
うに、どうして何もしないの?
チビで肉付きが悪いから食指が動かないのかな、それとも僕は気まぐれで飼ったペットみ
たいな存在で食糧にも値しないとか……
翔が大好きだよ
卑屈な事を考えていたら、突然慈愛に満ちた
声が頭の中で響いた。
それは幼い頃から繰り返された暖かい言葉。
それを言う時の智君はとても優しく笑ってい
て、僕は凄く安心するんだ。
もしかしたら……
これは願望だけど、僕を大切に思ってくれて
いるから血を吸えない……とか?
甚だしい勘違いかもしれないけど、昨夜の呪
文やお祈り、それにこれまでしてくれた事を
例に挙げたら有り得なくもないと思う。
「……決めた」
もし智君が我慢しているのだとしたら、その
抑制を解くのは僕の役目。
成長して健康な血液を差し出せば、智君も気
兼ねせずに飲んでくれるはず。
「沢山食べてもっと身体を大きくして、美味
しい血を作ろう。そうして誘えば智君もきっと……」
あの綺麗な顔が近づき、小さな口の中に隠れ
ていた鋭い牙が僕の首筋に突き刺さるのを想
像してぶるりと身体が震えた。
それは恐怖からじゃない、気持ちが激しく高
揚しているんだ。
大好きな人に血を捧げるのは至上の喜びに他
ならないのだから。
*
その日から沢山食べ運動し、良く眠ることを
心がけた。
それを見ていた智君は「子供らしくて良い」
と喜んでいる。
僕は「智君のためだよ!」と胸を張って言い
たいけど、それは出来ないから笑って見せる
だけだった。
そんなある日、メインディッシュの分厚い肉
と格闘する僕に智君が済まなそうに言った。
「暫く屋敷を留守にすることになった…」
「えっ?」
「戴冠式があるんだよ。本当は嫌なんだけど
公爵という立場上行かなきゃならないんだ」
「何日くらい?」
「ん~そうだなぁ、諸々の式典があるから数
ヶ月かな」
「そんなに……」
今までも智君はたまに留守にすることがあっ
たけど、それは数日間だけだった。
だから数ヶ月と聞いて少し不安になる。
「屋敷の事は執事に任すし、お前は普段通り
の生活をしていればいいさ」
「でも智君がいないと淋しい…」
「俺も翔がいないと淋しいよ、でも連れて行
くわけにも行かないからな。少しの間だから
我慢してくれ」
「うん……」
何ヵ月も会えないのは正直辛いけど、お世話
になっている身だから我儘なんて言えない。
「そんな顔するなよ、永遠の別れじゃないん
だし。たまには手紙も送るから」
「本当?」
「ああ。お前も返事をくれよ?」
「必ず書くよ!」
「ても長い手紙は止めてくれ。途中で寝ちま
いそうだからな」
「智君も短い手紙は止してよ。元気だ、なん
て一言だけとか絶対に嫌だからね」
「あ~、ははは……善処する」
何だか疑わしい返事だったけど、手紙をくれ
るなら少しは淋しさも紛れるだろう。
僕は平気なふりをしてまた肉との格闘を始め
た。だけどさっきまでは美味しかった肉が、
今は全然味がしなくてゴムでも噛んでいるみ
たいに感じる。
智君がなくなると、こんな風に砂を噛むよう
な食事になるのだろうな。
やべ
終わらん