お山の妄想のお話です。
投げ付けた小石たちは丁度彼女の顔面に当た
った。
「きゃあっ!」
突然の痛みに手で顔を覆った瞬間を見逃さず
俺は立ち上がり走り出す。
「ま、待てっ!」
背後から怒号が聞こえた、だけど当然無視する。どんどん彼女と距離が開き、このままな
ら追い付かれることはない意外と余裕かも、
と高を括っていた。
「わぁっ!」
そんな油断が悪かったのだろう、公園の出口
直前で石か何かに躓き転んでしまったんだ。
痛恨のミス!!
生死に関わるという時に……
いざという時のツキの無さに自分を呪いたく
なった。
しかも勢いよく転んだから手、肘、膝を地面
に強打してしまい痛みですぐに動けない。
その間にもカツカツと靴音が近付いて来る。
「ふふ、転んだのね。可哀想に」
侮蔑を含む嫌味な言葉、振り返り見れば彼女
が冷笑を浮かべ俺を見下ろしていた。
彼女との距離は2メートルもない。
「擦り剥いたの?痛そうね、でもじきに痛み
も感じなくなるから」
そう言いペティナイフを構え直し一歩踏み出
し、俺との距離が縮まる。
「あら、大人しいわね?さっきまでの元気は
どうしたの?」
また一歩、近付く。
彼女の目は完全にイッてしまっていて、まと
もな思考は残っていないようだ。
あと数歩で俺はあのナイフの餌食になってし
まうのか……
彼女の持つ鈍く光るナイフから目が離せない
あれが自分に刺さるのだと思うと、恐怖で身
がすくんだ。
怖い、怖いよ。
どうしたらいい?体は動かないし、叫ぼうに
も喉がカラカラで声が出ない。
周りは住宅街だから人は大勢いるはずなのに
誰も物音に気付いていないの?
誰か、誰でもいいから、お願い助けて!
そんな願いも虚しく彼女はもう俺の前まで来
ていて、ナイフを高く振り翳している。
「これで、さよならね」
冷たい声と共に鋭い刃が振り下ろされる。
俺にはそれがスローモーションのように見え
た。
もう、駄目か……
そう感じた時、今までの出来事が走馬灯のよ
うに甦ったんだ。
母さんとの生活、懐かしく優しい思い出…
智君との出会い、楽しかった日々と甘酸っぱ
い気持ち……
智君の穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。
最後に一目でいいから会いたかったな…
迷惑ばかりかけて、今までのお礼も言えない
ままか……
智君、こんなことになってごめんね…
近づく銀色に、ギュッと目を閉じ痛みに備えた。
「 ! 」
しかし訪れたのは痛みではなく衝撃、身体に
何かがぶつかってきたようだ。
それはまるで俺を包み込むように覆い被さっ
ている。
柔らかくて、温かい………甘い香りもする…
あれ?これ嗅いだことがある…
ミルクみたいな甘い香り、これって……
「さとしくん…?」
智君なの?
返事はないけど絶対に智君だ。
でもどうして?
そうか、ここは駅から家までの帰り道だった
「智君?」
もう一度呼び掛けると『おう』と短く返って
きた。
やっぱり智君だ、智君が助けてくれたんだ…
安心感で緊張が解け強張っていた体が緩む、
そんな俺の耳元に智君は囁いた。
「逃げろ」
「えっ」
「紫陽さんは俺が止めるから、お前はすぐに
逃げるんだ」
智君をおいて一人で逃げる…?
そんなの出来るわけない。
「嫌だ!智君をおいて逃げるなんて」
「我儘言うな……安全な場所まで走れ」
「嫌だよ!あの人ナイフ持ってるんだよ!智
君一人じゃ………」
言った瞬間、振り下ろされたナイフを思い出
した。そして切っ先はどこに刺さったのか疑
問が湧いたんだ。
あれの標的は完全に俺だったのに全く痛みが
ない……
「 ! 」
まさか……
ある考えに至り心臓が凍りつく。
無傷な俺、覆い被さる智君……
それって…俺を庇ってあのナイフに…
「さ、智君…怪我…」
震える声で訊くと少しの間の後『大丈夫、た
いしたことねぇ』と返ってきた。
だけど改めて聞いた声は、痛みを我慢してい
るようなくぐもったものだった。
「大丈夫じゃないでしょ!離して!」
智君の怪我の具合を確かめたかった、酷い傷
ならすぐに手当しないといけない。
「俺の事はどうでもいいんだよ。お前さえ無
事なら、それでいい」
その言葉にカチンときた。
「俺のために犠牲になるって言うの?止めてよ、そんなの全然望んでない!」
「馬鹿っ!俺はお前が大切なんだよ!聞き分
けろ!」
「俺だって智君が大切だよ!」
俺と智君はお互いにムキになり、現状を忘れ
て言い合った。本当はこんな事をしている場
合ではないのに…
「……智さん?」
そんな中、やにわに媚びるような声がして俺
達は息を呑む。
紫陽という危険な存在を思い出したんだ。
「嬉しい……やっと会えた」
恐る恐る振り返ると、彼女がナイフを手にし
たままニッコリと微笑んでいる。
「ずっと連絡していたのに、どうして返事を
くれなかったの?私、凄く淋しかったのよ」
智君を傷つけておきながら何事もなかったよ
うな態度……もはや異常でしかない。
「…ごめん、忙しくて…」
彼女を刺激しないように穏やかな声で返事を
しながら、智君は俺を背中に庇う体勢をとった。
「個展、もうすぐですものね。でもずっと放
っておかれるのは辛いのよ?」
「そっか、ごめんな気が利かなくて」
話しながら智君は肘で俺を押す、きっと早く
ここから離れろと言うことだろう。
この会話で逃げる時間を稼いでくれているの
はわかるけど、やっぱり一人では嫌だ。
「わかってくれればいいのよ」
謝るのが当然だという傲慢な態度、完全なる
ナルシシズム……
「あなたが急に割り込むから誤って刺してし
まったけど、それは私を蔑ろにしたお仕置きね。さあ、そこをどいて。今度こそ邪魔者を
消すんだから」
「それは出来ない」
「どうして?その子がいなくなれば、あなた
は自由になれるのよ?私達の未来も明るくな
るわ」
「紫陽さんよく聞いて、あなたは勘違いして
いるよ」
「勘違い?何をかしら?」
「俺達はそんな関係じゃなくて友達だろ?」
「違うわ、恋人同士よ。だから家に通って食
事を作ったの」
「……よく思い出してみて。それは恋人同士
だからじゃなくて、個展の準備が忙しくなる
俺の代わりに翔に食事を作ってくれないかと
頼んだからだよ」
「………え?」
智君の言葉が自分の認識と違うと気付き、彼
女は僅かに怯んだ。
「俺が誤解させるような事をしたなら謝る」
「……誤解?私が?」
「だからこの子を傷つけないで、そんな物騒
な物もしまってくれ」
智君は落ち着いた声で語りかけ、彼女に正常
な意識を取り戻させようとしている。
「……智さんは私の恋人じゃない…」
やっと間違いに気付いたのか、今までの自信
に満ちた口調ではなく悄然とした呟き。
それを聞き少しは正気に戻ったのかと安堵し
たのに……
「……そんなの……許せない」
「紫陽さん?」
「私を選ばないなんて有り得ない、許せない
わ!私のものにならないなら、存在する意味
なんてない!」
彼女は突然激昂した、そして再びペティナイ
フを構えたんだ。
「あなたは幸せな思い出として、私の記憶に
残ればいいのよ!」
「紫陽さん、落ち着いて!」
「他の人のものになる前に……私が…」
やはり彼女は狂っていた。
そして狂気の矛先が今度は智君へ向いてしま
ったんだ。
「翔!行くんだ!」
それを察知した智君は肘ではなく手で俺を突
き飛ばした。強く押され一瞬呼吸が止まる。
痛みを感じ押された胸に手を当てると、服に
濡れた感触がしたんだ。
驚いて掌を見ると夜目でもわかるほどの色が
ついている。
その色は……赤……これって……
それの正体に気づき息を呑み、智君を見た。
街灯の逆光のせいで此方に向けた背は影にな
って傷などは見えない、だけど革ジャンの袖
から手へと血液が流れている。
指先からポトリポトリと途切れること無く落
ちる雫、一体どれだの出血なのか…
刺されてから時間が経っている、致命傷では
なくてもこのままだと……
1リットル以上の血液を失うと生命に危険が
及ぶと聞いたことがある、智君は本当に大丈
夫なのか?
『手遅れ』なんてないよね?
俺の前から消えたりしないよね!
母さん……突然失なわれた笑顔。
別の場所にいた俺にはどうすることも出来な
かった。
だけど智君は目の前にいる、俺が助けること
が出来るんだ。
絶対に失ないたくない大切な人……
守られるだけじゃなく守りたい。
智君より随分年下の子供だけど、愛する人は
この身に代えても守り抜く。
俺だって男なのだから
進まぬ