お山の妄想のお話しです。




兎に角とても疲れている。

紫陽さんが家に入るようになったここ一月程

は心労が絶えない。


当初は週に数回という話だったのに、夕飯は

皆でとると彼女が勝手に決めた後からは続け

て来るようになったんだ。


智君が『頼んだ日だけでいい』と言っても

『仕事が忙しい間は手伝います、その方が集

中出来るでしょ?』と聞く耳を持たない。

そして俺が帰宅する大分前に家に入り込んで

頼まれてもない掃除や洗濯までしはじめた。


俺の仕事……洗濯たたみ、埃とり、それも無く

なってしまったんだ。

智君の役に立とうと頑張っていたのに…


学校から帰れば家の中に他人が我が物顔でい

て、作品が佳境に入った智君と夕飯時以外に

は会えない。

夕食にやっと顔を合わせても紫陽さんがずっ

と智君に話しかけ、俺が入る隙もないんだ。


勿論智君は話し掛けてくれるよ、だけど俺が

応える前に彼女が割り込む。

まるで智君と会話をさせないと息巻いている

ようだった。

毎日がそんな繰り返しで大変なストレスだ。


俺は次第に家に帰りたくないと思うようにな

った。学校帰りに公園に寄って、彼女が帰る

までブランコでも漕いでいようかと何回も思

ったさ。


だけど所詮は無理なんだ。

だって帰りが遅いと心配をかけるし、俺自身

が智君の近くにいたい。会えなくても気配を

感じる場所にいたかった。


結局俺が帰る場所は智君のいるところ。

そこに疎ましい存在がいて、俺のアイデンテ

ィティが失われたとしても。



児童会の集まりを終えて帰途についた。

寒くなったこの季節は暗くなるのも早い、マ

ンションへの道は沢山街灯があって明るいけ

ど歩いているのは俺だけだ。


下校時間ギリギリまで校舎内にいて、それで

も決まらない事があったから正門の横で話し

ていたらすっかり遅くなってしまった。

智君には今日は児童会があると言ってあるけ

ど、いつもより遅いから心配しているかも…


歩道にある時計を見ればもうすぐ夕飯の時間

だった、きっと急いだ方がいい…

だけど足は鉛の様に重く、遅く帰った方が紫

陽さんと一緒にいる時間が減ると考えたら自

ずと歩くペースは遅くなった。


遠くに見えるマンション

明かりの灯った智君と俺の部屋

ちょっと前まではそこに帰るのが嬉しくてた

まらなかったのに、今はこんなに心も足も重

いなんて……


早く元の日常に戻りたい、そう思いながら重

い足を引きずって憂鬱な場所へと進んだ。



「……ただいま」


玄関で帰宅の挨拶をする、いつものルーチン

でも『お帰り、今日は遅かったな』と優しい

声が返ってこない。


普段は食卓に着いている時間だから、智君も

仕事部屋から出てリビングにいる筈なのに…

話し声はおろか物音一つ聞こえないんだ。


「誰もいないの?」


俺だけおいて二人で出掛けた?

まさか、そんな事は絶対にない。

今がどういう状況かを確かめるために、俺は

リビングへと向かった。


リビングまでの廊下を歩いていても物音はし

ない、テレビの音も話し声も料理を作る音さ

えしなかった。


……もしかしたら俺を残して本当に二人は出

掛けてしまったのかも…

そんな不安が過ったけど、玄関にギョサンと

パンプスがあったのを思い出し霧散させた。


リビングにいなければ智君は仕事部屋にいる

はずだ。

紫陽さんは……この際どうでもいい。

仕事中は絶対に部屋に人を入れないから一緒

にいることはないだろう。


いっそパンプスがなければ良かったのに…

無ければこの家にはいないとわかって、鬱陶

しい時間を過ごさなくても済んだんだ。


心の中で皮肉りながらリビングのドアを開け

中を覗いてみた。

一番居る確立の高いキッチンには人影なし、

でもダイニングテーブルには人数分の食器が

セットしてある。

やはり家の何処かにはいるようだ。


次にリビングに視線を向けるとテレビは消え

ていて、ここも一見無人のように思えた。

けれどドアに背を向ける形で配置してあるソ

ファーからゴソッと小さな音がしたんだ。


「…誰?」


問い掛けるとスッと立ち上がる姿があった。

それは紫陽さんで、すぐに立ち上がった動作

からどうやらソファーに屈んでいたようだ。


紫陽さんは暫くソファーを見つめ、それから

俺の方を向くと『おかえりなさい』と笑みを

浮かべる。

それがまるで勝ち誇ったかのような傲慢なも

ので、とても不快に感じた。


「もう準備は出来てるから、すぐに食べられ

るわ。荷物を置いていらっしゃい」

「……わかりました。あの、智君は仕事中で

すか?だったら呼んできますが」


智君の姿がないからまだ仕事部屋だと思って

訊いてみると、紫陽さんはソファーを指差し

て『そこにいるわよ』と嘲笑的に笑う。


見下すような態度が不愉快だったけれど無視

して、彼女の言葉が真実なのか確かめるため

にソファーを回り込んでみた。

すると言葉通りに智君はいて、ソファーで眠

っていた。


その寝顔が可愛らしくてソファーの前に膝を

つき魅入ってしまう。

クルンとカールしたバサバサの睫、小振りな

鼻に小さな口……目の下の隈やちょっと痩け

てしまった頬には仕事の大変さを感じた。

でも少し開いた唇から漏れる寝息は健やかだ

ったから、ちょっとだけ安心した。


「智君…起きて」


寝かせておいてあげたいのは山々だけど、

もう夕飯だ。それに早く話をしたい。


「智君、もう夕飯だよ」


そっと体を揺すると『う…うん?しょー』と

声を出しゴニョゴニョ呟きはじめる。

目を閉じたままだし声も明瞭じゃないから確

実に寝言だろうけど、何を言っているのか興

味がわいた。


良く聞こうと耳を近付けた時、智君の唇が普

段と違うように感じたんだ。

その違和感を確かめるために目を凝らすと、

唇の色が違うことがわかった。


どうしたのかとそっと触ると、肌とは違う感

触が指先に伝わってくる。

それを拭ってみると指先に紅色が着いていた


絵具とは違うみたい

………これは口紅?


口紅だとしたらどうして着いているの?

智君にそんな趣味はないし、口紅だって持っ

ていないだろう……


じっと紅色を見つめ考えた、そして気づいた

んだ。この紅色の出所を。


あいつの口紅と同じ色だ

あいつもさっき今の俺のように屈んでいた

眠っているのにつけ込んで、智君にキスをし

たんだ。なんて厚顔で卑怯な行為!!


あいつは俺が智君に抱く想いを知っていて、

恰も自分の方が優位だと見せつけてきたんだ


大人で女だから優れているの?

家事が出来るから?

仕事を持っているから?

結婚できるから?

…子供が産めるからか?


どれも今の俺にはないし、逆立ちしても無理

なものもある。

だけど想いの強さでは負けていない

俺の方が数倍、いや数億倍智君が好きだ。


……でも俺はまだ子供で何も出来やしない

今回の報復ですら…

彼女の卑劣な行動が悔しくて、体か怒りに震

えた。


「くそっ…」


忌々しくて吐き捨てると、声が大きかったの

か智君が目を覚ました。


「…おっ?しょーおかえり」

「ただいま」

「今日は遅かったんだな~、待ってる間に寝

ちまったよ」

「うん、児童会が長引いちゃった」

「そーか、この頃日が暮れるのが早いから帰

りは気をつけろよ」 

「わかってる。それよりもう夕飯だよ」

「おお、んじゃあっち行くか」

「うん、でもその前にさ…」


俺は智君の唇を手で拭った、残りの紅を取る

ためだ。

智君はキョトンとしていたけど、拭い終わる

とフニャっと笑った。


「悪ぃな、涎ついてた?」

「ううん、ゴミがついてた。でももう綺麗に

したから大丈夫」

「ゴミ??そっか、あんがと」


智君は大きく伸びをするとソファーから起き

上がる。


「さー、メシ食おう」

「俺、荷物置いてくる」

「手洗いと嗽もな」

「うん」


部屋に荷物を置きに行く前に、俺はキッチン

に視線を向けた。

そこには此方を睨む紫陽さんがいて俺も負け

じと睨み返す。


もう絶対に汚いゴミを智君に着けさせたりし

ない、そう肝に銘じた。

























小学生にマウント