お山の妄想のお話しです。






人の気配に振り返ると、そこには風に髪を乱

されながら小柄な男性が驚きの表情を浮かべ

佇んでいた。


それはまさに探し求めた最愛の人の姿


これは夢?

俺は白昼夢を見ているのか?

もし、俺の願望が見せた幻想なら

お願いだから消えないで…


現実か空想か、

突然の出来事に混乱し、判別がつかない。


それでも愛しい姿を瞳に写していたくてじっ

と見つめていると、彼の小さな唇が動いた。


「しょうくん…」



聞き違うことなどない声音(こわね)

まぎれもない、あなたの声


幻想なんかじゃない、あなただ!

俺の、かけがえのないひと



逢いたかった

とても逢いたかった最愛の人


智君

智君!


あなたの名前を呼んで駆け寄り、その身体を

抱きしめたい!

もう、離したくないんだ!


「………さ……」


でも、

あなたの名前を呼びたいのに声が出せない、

近くに行きたいのに身体か動かなかった。



それは、智君が…

智君が一歩後ずさったからだ。


一瞬で俺の中の歓喜は恐怖へと変わった。


智君の表情が固くなり、その瞳からはまぎれ

もない畏怖が見てとれた。


俺の事を恐れているの?何故?

ああ、そうだった。

俺はあなたに酷い仕打ちをしていたんだ

怯えさせてしまう程の深い傷を、あなたに負

わせてしまったんだね…


あなたの中の俺は、もう恋人ではなくて

自分を傷つけた身勝手な男になってしまって

いるんだね…


わかっていたはずなのに、あなたの表情や態

度を目の当たりにすると身を引き裂かれるよ

うな痛みを感じた。


それでも側に行きたくて震える足を一歩踏み

出すと、智君の身体がビクリと震えた。

そしてまた一歩俺から離れていく。


避けられている…

当たり前だ、自分の仕出かした事を思い出せ。

俺は智君の側に行く資格なんてないんだ


ふらふらとあなたに引き寄せられ、動こうと

する足を必死に踏み止ませる。


もうあなたの嫌がる事はしないよ

だからお願い、それ以上俺から離れないで

どうか、話を聞いて


「智君…」


そんな願いを込めて智君を見つめた。










翔くんがいる、俺の目の前に


ずっと逢いたくて、でも逢えなかった人

どれだけ忘れようとしても、俺の心の中に居

続ける愛しい人だ


整った美しい横顔

アーモンドの形の大きな瞳

通った鼻筋

ふっくらとした形の良い唇

記憶の中の愛する人と全て一致する


ああ、翔くんだ

大好きな翔くん…


でも、もう、俺の恋人じゃない…


その事実にグッと胸が締め付けられる、

そして俺は焦燥に駆られた。


今ならまだ大丈夫、まだ間に合う。

翔くんが俺に気付く前に離れなきゃ

そんな思いが胸を占めたんだ。


だって、怖い

翔くんが怖い

翔くんの言葉を聞くのが恐ろしいんだ


俺はなんて意気地がないんだ

松兄にはケジメを付ける為に街に戻るなんて

言っておきながら、実際翔くんを目の前にし

たら怖気づくなんて。


逃げなきゃ、翔くんに気付かれる前に

拒絶や別れの言葉がその口から発せられる前

に。


早く、早く


今すぐこの場から走り去りたいのに、

俺の脚は根が生えたようにその場から動く事

が出来ない。

瞳は愛しい人を捉えたまま、逸らすこともで

きなかった。


ずっと見ていたい、

離れたくない…


思考と行動が伴わない

理性と感情の狭間で葛藤するしかなかった。



そんな時、翔くんが突然此方を向いた

俺を見た彼の大きな目がさらに見開かれて、

驚きを表していた。


見つかってしまった…

じっと見つめられ、思わず言葉がでた


「しょうくん…」


呼んだ途端に、翔くんの気配が変わった。

幻を見ているかのようにぼんやりとしていた

瞳に力が入り、真っ直ぐに俺を射る。


「………さ……」


言葉を発しながら翔くんの身体が動き出そう

としているのを感じた。


俺の所に来るつもり?

どうして?

突然消えたことを責められる?

それとも、おかげで雅紀さんと上手くいった

と礼でも言うつもりなの?!


怖い


ネガティブな思いしか浮かばなくて、

嫌な言葉を聞きたくなくて

俺は後ずさった


すると翔くんの動きが止まり、みるみる内に

その瞳の強い光も失われた。


そして何故か沈痛の表情をその綺麗な顔に浮

かべたんだ。


まるで懺悔でもするかのような雰囲気でまた

此方に来ようとするから、俺はもう一歩下が

り距離をとった。


すると翔くんは耐えるように唇を噛み締めて

ピタリと動くのを止め、訴えかけるような表

情で俺を見たんだ。



「智君…」