お山の妄想のお話しです。




「パンドラの箱……」


机の上の青いリボンをつつきながら呟いた。

菅田君に言われた日、このプレゼントを買っ

た日からずっと考えている。


ギリシャ神話、ゼウスの言いつけを破り箱を

開けてしまったパンドーラ。

箱の中からは『厄災』が飛び出して、慌てて

箱を閉めた時に中に残っていたのは『希望』

だけだった…


パンドラの『希望』にはポジティブとネガテ

ィブ、二つの解釈があると言う。


ポジティブな解釈は『人間の手元に希望が残

った』『希望を持って生きられるようになっ

た』だ。


ネガティブな解釈は『希望が残ったために人

間は希望にすがることしかできなくなり、苦

しみが増した』というもの。



この箱を開けた時、俺の禁忌な想いが溢れ出

て残っていたのが希望ならそれはどちらの意

味なんだろう…


いや、そもそも『希望』なんて俺には無いの

だから考えるだけ無駄なことじゃないか?


そんな考えに行き着いて、ピンと小箱を指先

で弾くとコロンと転がった。

あっ、中身は大丈夫?!なんて焦ったけど、

渡す相手もない物なのだから気にする事もな

いだろう。


このまま転がしておこうかな、なんて思った

時に何故か悲し気な翔くんの顔が浮かんだ。

淋しそうに沈んだ表情…


……翔くんがそんな顔をするはずないのにな


だってきっと邪魔な俺がいない今は雅紀さん

と睦まじく暮らしているはずだもの。

俺が消えて清清しているさ、悲しい事なんて

何一つないんだ。



でもそこで、この海に現れた『人探しの人』

の事を思い出した。

大切な恋人が何も言わずいなくなった…

原因は彼にあったとしても、突然いなくなら

れたら酷く傷付いただろう。


俺も翔くんに何も残さなかった…

もしかしたら、翔くんも傷付いた?

幸せの中に小さな棘を残してしまったかな…


初めてそんな考えが脳裏をよぎった。

翔くんの幸せのためと、俺が消えればそれで

いいとずっと思っていたけど…


俺の意図がわからない翔くんはどうしてなん

だと困惑してしまったかも。

優しいから心を痛めたんじゃないのか?


理由も言わないまま、突然家を出た俺…

何も知らない翔くん…


もしや独り善がりだったんじゃないか?

翔くんと話し合いお互い納得した上で、出て

くるべきだったのでは?


どんどんと、そんな思いが沸き起こる。

良かれと思ってした事が逆に迷惑をかけたの

かもしれない。


それに、俺はけじめをつけていないじゃないか。

翔くんに『さよなら』を言ってない。


当時は淋しくて、苦しくて、悲しくて…

翔くんを見るのが辛くて、あの部屋を飛び出

してしまった。


話し合おうとしなかったのは、翔くんからの

別れ話を聞きたくなかったから。

『さよなら』という終りの言葉から、俺は逃

げたんだ。



…やっぱり、これじゃ駄目だ。

けじめをつけないから、何時までも心に想い

が残るんだ。


俺が前に進むには翔くんから離れて暮らすん

じゃなく、心に区切りをつけなければいけな

いんじゃないのか?


でも、やっぱり怖いし苦しい

忘れられないよ…


「あ゛~!!」


纏まらない考えにガシガシと頭を掻きむしる。

意気地無しの俺!

こんなの堂々巡りじゃないか。

これじゃあ永遠にこのままだ…


俺は気分転換に外に出ることにした。

こんな時は海を眺めてぼ~っとするのが一番

だろう。


外に出ると空は厚い雲に覆われて、波は高か

った。

今は雨上がりだろうか?それとも今から降る?

急ぎの仕事が入ってずっと部屋にこもってい

たからわからない。


どちらにせよ、海が見たい。

俺は家の前の砂浜に下りた。

普段ならサラサラしている砂が湿っている、

どうやら雨上がりらしい。


これじゃあ座れない、俺は立ったまま海を眺

めることにした。


黒ずんだ灰色の空、それを映した暗い色の海。

なんだか俺の心みたいだ。


だとすると翔くんと想いが通じ合っていると

思っていた頃は、晴れた空、凪の海かな。


そんな事を思っていると、突然強い海風が吹

いてきた。

自分で言うのもなんだけど、薄っぺらい俺の

身体なんて吹き飛ばされそうだ。


折角気分転換に来たけれどこれじゃあ身体が

危ないや。

やれやれ、 戻るか…


そう思った時に美しい光景が現れた。


風に吹かれ流れた灰色の雲の合間から、一筋

の太陽の光が降り注ぎ海面を照している。

灰色の中、一直線に延びる光…

なんて神々しく美しいんだろう


俺は急いでポケットからスマホを取り出し、

その絵のように美しいさまを写真に収めた。


何枚か撮る間にまた強い風に雲が流されて太

陽の光は消えてしまった。

また暗い空に戻ってしまったけど、これが

『自然』なんだ。

どんどん移り変わり同じ景色はない。


ふと、俺もこんな風に変わるべきだと思った。

いつまでも暗い闇の中に隠れてはいられない

明るい場所に出て、今まで逃げていた事に目

を向けすべてを清算しなくちゃ。


きっと、さっきの光はそれを教えてくれたん

だな。

宗教画にありそうな雲間からの一条の光、題

名をつけるなら『天からの啓示』とか『希望

の光』とかだろう。

迷っていた俺にとっては、するべき事を教え

てくれた『天からの啓示』かな。


もう一度空を見上げる。

まだ鉛色の空だけど、俺の中のモヤモヤした

ものは無くなった。

強い風に、いじいじした考えが吹き飛んで気

持ちの整理がついたみたいだ。


なんだかスッキリした気分

前に進めそうな予感がした。



それにしても素敵なものが見れたな、きっと

翔くんが見たら『智君見て!凄いよ、凄く綺麗!』って大興奮だっただろう。

そんな姿が想像できてちょっと笑った。


海から部屋に戻り写真を確かめると、何枚か

上手く撮れていた。

見せてあげたいな、きっと感動するよ。

でも翔くんには送れない……


写真をぼんやり眺めながら考えた。

そうだ、カズに送ろう!

カズならこの写真から俺の気持ちや決意を読

み取ってくれるはず。


もしかしたら翔くんに見せてくれるかもしれ

ないし。

いや、それは無いかな。

だってカズは翔くんを『目の上の瘤』って言

ってたしね。


辛辣なカズの言葉を思い出して可笑しくなった。





カズに写真を送ってから数日経った日の夕飯後、松兄の片付けを手伝った。

テキパキと洗われ、手渡される皿を拭いていく。綺麗に水滴を取りながら松兄に決めたこ

とを話した。


「ねえ、松兄」

「あ~?」

「俺さ、一回あっちに行ってみるよ」

「は?あっち?」

「うん、前に住んでた所に」

「何でだ?」

「会ってこようと思ってる」

「…元カレにか?」

「 うん 」


松兄は皿を洗うのを止めてじっと俺を見た。


「会ってどうする?」

「話してくる、そんで色々決着をつけてくる」


俺も松兄の目を見て答えた。


「…お前大丈夫なのか?」

「…多分、大丈夫…」

「多分……か」


松兄が心配してくれている、でも俺は前に進

むために行かなきゃならないから。


「……いつ行くんだ?」

「ん、明日」


思い立ったが吉日だ、俺が情けなくも弱い心

に戻る前に会わなくちゃ。

そうでないと折角の決心が元の木阿弥になる。


「は?明日?マジか?!」

「うん、早い方がいいだろ」

「いや、落ち着け、一寸待て」


そう言う松兄が何故かあたふたと慌てていた。


「慌ててどうしたの?明日は駄目なの?」

「お前、急なんだよ!こっちの事情も考えろ」

「事情?」

「は!いや、何でもねえ!」

「じゃあ、明日始発の電車で…」

「待て、ちょーっと待て!明日はやっぱ駄目

だろ。用事がある」

「なんでだよ、別に松兄について来てなんて

言ってないだろ」

「そうだけど、明日は止めろ」

「だから、どうして駄目なの!」


松兄の様子がおかしい、理由は分からないけ

ど明らかに引き止められている。


「あ、あ~っ。あ!そうだ原稿!」

「原稿?」

「お前今やってる仕事終わったのか?締め切

りは大丈夫なのかよ」


言われて気が付いた…急ぎの仕事…追加があっ

た…

今出掛けたら締め切りヤバいかもしれない。


「大丈夫じゃないかも…」

「だろ!行くなら仕事を終えてからにしろ!

それが社会人だ!」

「……そうだね」


やっぱり仕事を終わらせて、心置き無く行く

ことにしよう。


「手伝いはもう良いから、さっさと部屋に戻

って仕事しろ!」

「は~い…」


手から布巾を取り上げられ、シッシと追い払

われる。

俺は犬か?何時にもまして扱いが雑だな。


ぶつぶつ独り言ちながら台所を後にした。

でも部屋に戻る前に用を足そうとトイレへと

向かった。





「…急で悪いが…」


トイレから自室に向かう途中、台所からひそ

ひそ話す松兄の声がした。


「……そうか、大丈夫か。なら場所は……いや、

ここは駄目だ……ああ、堤防の所に……案内人

を遣るから…用心のために誰とも話すなよ……

あいつにはあんたの事を言ってねえ……」


台所の隅に隠れるように小さな声で話す松兄。

電話中?

他人に聞かれたら駄目な話しかな?


少し気になったけど、邪魔をしないように静

かに通り過ぎた。



さあ、原稿を仕上げよう。

そして、戻るんだ。


また悲しい思いをすることになるだろうけど

あの雲間からの日差しみたいに、いつか俺の

心にも光が射す時が来るはずだから。