お山の妄想のお話しです。
遠くに行きたいと言ったのは、菅田くんが察
した通り翔くんに関係がある。
でもそれを菅田くんに話す必要はあるのか?
人には各々過去があり、口外したくない事だ
って沢山あるんだ。
俺が話したくないのは正に翔くんのこと…
話せば思い出してしまうよ、あの苦しかった
日々を。
でもね、それ以上に楽しかった事や幸せだっ
た時を思い出すんだ。
すると俺の胸の中で『逢いたい』って感情が
渦巻き暴れだす。
頭では絶対に逢えないって分かってるのに、
抗えなくなるんだ。
こんな未練たらしく情けない話を、年若い菅
田君にするのは憚られる。
「…確かに遠くへ行きたいと言った理由の一
端ではあるけど、それだけじゃないから」
語尾を強め、これ以上踏み込むなと戒めてみ
たけど菅田君には全然効いていなかった。
「大野さんはその人から逃げるために遠くへ
行きたいんですか?」
「逃げるためじゃない」
「本当ですか?じゃあ、なぜ?」
逃げるためじゃない、だって翔くんは追って
なんてこない。
雅紀さんと幸せに暮らす翔くんがそんな無意
味なことはしないだろう。
「自分の弱い心を戒めるためだよ」
遠くへ行くのは自分のため、弱い心を強くす
るためだ。
これから先の人生、一人で過ごすのには俺の
心は弱すぎる。
恋しい、逢いたいなんて愛惜が暴走しないよ
うに、一人で逞しく生きるために…
修行みたいなものかもしれないな。
「心を戒める?そのために遠くに行きたいの
ならニューヨークは打って付けじゃないです
か?知らない国で言葉も通じなく不便な生活
になります、嫌でも心身ともに鍛えられる」
だから一緒に行きましょうと菅田君は匂わせ
てくる。
納得してもらうように、今までしなかった俺
がニューヨークに行かない理由を話した方が
いいだろう。
「そうだね、あっちに行けば強くなれるだろ
う。でも、それも君と行ったらダメになるよ。俺は君に頼ってしまう、それじゃあ意味がな
いんだ。誰も俺を知らない場所で一人で何で
も出来るようになりたいんだ」
ニューヨークは魅力的な街だけど、君と行っ
たら俺は君を頼るだろう。
翔くんを頼っていた時の様な甘やかされた生
活はもう繰り返しちゃいけないんだよ。
「………一人で、ですか」
「そう、俺一人で」
「 ……… 」
「だから君とは行けないんだ、それにあっち
で暮らすとなったら君と同じでお金が足りな
いからな」
「 ……… 」
パスポートもないしね、と最後はおどけて言
ってみたけど菅田君は真面目な表情を崩さな
かった。
ひたむきな眼差しで見つめられ、段々と居心
地が悪くなってきた頃菅田君はやっと口を開
いた。
「大野さんがあっちに行かない理由はわかり
ました。でも俺は諦めませんよ」
「まだ誘うつもり?逆にどうしてそこまで俺
を連れて行こうとするの?」
それがずっと疑問だった。
こんな冴えないおっさんを連れて行って、彼
にメリットはあるんだろうか?
菅田君は俺の問いに、何故か少し頬を染めな
がら答えた。
「大野さんを連れて行きたいのは、あなたが
素晴らしいものを持っていると感じたからです。すでにあなたはイラストレーターとして
成功していますが、もっとスキルを獲得すれ
ば世界に通用するアーティストになれると思
うんです。ひよっこの俺が言うのも烏滸がま
しいですがあなたには光がある、ダイヤの原
石ってやつです。俺はそんな人と共に歩んで
刺激を受けたい、あなたと切磋琢磨して夢を
掴み取りたいんです」
「なっ、なに言ってんの俺にそんなものは無
いよ」
「いいえ、間違いなくあります!」
力説されて此方まで顔が熱くなった。
「もう止めて、菅田君は俺を買いかぶり過ぎ
だよ!」
「そんなことは無いです!」
まだ何か言おうとするのを止めるために、俺
はこれもまた彼には黙っていた事を言った。
「どんなに煽てても行かないよ!それから俺
はゲイだから少し危機感を持った方がいい」
俺の言葉に菅田君はキョトンとした。
「それが何か問題ですか?」
「 えっ、ひかないの?!てか、まさか知って
たとか?」
「なんとなく気が付いてましたよ」
「何時から?!」
俺は必要と感じなければカムアウトはしない。
松兄達には迷惑にならないようにお世話にな
る前に言ったけど、菅田君は長く関わる人で
はないと思ったから黙ってたんだ。
だって少しの期間だったら言わない方が生活
しやすいだろ?
それに松兄達も本人が言うまで黙っているく
ちだから、菅田君は知らないと思ってた。
「初日の大野さんが酔っ払った時かな。ここ
まで運ぶのに首にしがみ付かれて、甘い声で
耳元に『しょうくん』なんて言われたら、そ
うなのかって思うでしょ」
「 ……… 」
言葉が無かった。
酔っていたとは言えそこまでとんでもない醜
態を晒してたんだな、恥ずかしい…
「俺全然気にしませんよ、知り合いにもいるし。音楽や芝居に関わる人って意外と多いから。それに俺自身も好きになった人が好きっ
て感じだし…」
最後のはにかみがよくわからないけど、菅田
君にこの手の牽制が効かない事は理解した。
「それに大野さんが俺に何かしようなんて気
が無いことも承知してますし」
「何で?わかんないよ?俺だって男だから突
然狼になるかもしれないぜ?」
「はは、そうなったらどんと来いですよ」
ニヤリと笑う菅田君、これ絶対に返り討ちに
合うやつだ…
「…狼にはなんない」
「残念です」
言うと同時に菅田君は立ち上がった。
「お仕事中長くお邪魔してすみませんでした」
「いや、ココアありがと」
ドアに向かうからそのまま出て行くと思って
いたら、彼は途中でピタリと足を止め振り返
った。
「あの、もう一つ訊いていいですか?」
「 なに?」
「しょうくん、って大野さんの恋人ですか?」
しょうくんという音に俺はまたドキリとする。
「…そんなの菅田君に関係ないだろ」
「いえ、あります。だって恋人だったら、大
野さんをその人から奪ってニューヨークに行
かなきゃならないでしょう?」
「だから~行かないって言ってるだろ」
「俺は諦めません。で、どうなんですか?」
「…どうって…」
どうしようか考えて、菅田君を見る。
彼は言うまで動かないぞ、という様に俺を見
ていた。
「翔くんは、恋人…だった人だよ」
控え目のようで押しの強い彼。
俺は内心やれやれと思いながら、翔くんとの
今の関係を話した。
菅田君は『じゃあ、大丈夫ですね』なんて笑
いながら部屋を出て行った。
「恋人、だった……かぁ」
俺は自分の言葉に、少しだけ傷ついていた…