お山の妄想のお話しです。
残業を終え暗い自宅に帰る。
一人だけの寒々しい部屋で有り合わせの夕飯
をとる。
簡単なものでいい、量も多くはいらない。
どうせ何を食べても味なんて感じないのだか
ら。
シャワーを浴びメールをチェックする。
…今日も有力な情報はなかった
俺は知り得る限りの方面に智君の情報提供を
呼び掛けている。
少しでも似た人の情報が入れば週末にその地
まで往訪する。
しかし今まで智君に繋がるものは何もなかった。
儘ならない現状に嘆息し、それから自室に入
り毛布を持つと智君の部屋のドアを開ける。
何もない部屋、俺を迎えるのは冷たくガラン
とした空間だけ。
それでもここはあの人が一番長く過ごした場
所だ、智君の気配がまだ少しだけ残っている
ような気がする。
今はそんなものにも縋りたい…
そして、部屋の片隅に毛布にくるまり座り目
を閉じる。
「おやすみ智君」
智君が消えた理由を知ってから自室で眠れな
くなった。
二人で愛を確かめ合い甘い時を過ごしたベッ
トに独り眠るのは辛すぎる。
幸せだった、愛しかなかった時間を思うと淋
しさで身を切られるようだ。
だから俺は智君の優しい気を求めてこの部屋
を訪れる、たとえあの人が残した物がなにも
無くても…
*
『翔ちゃ~ん、元気?』
昼休み、雅紀から電話があった。
「ああ、一応元気でやってる」
『一応って、なに?!』
「元気だよ」
『………そう、この頃全然会ってないからどう
してるかな~と思って電話しちゃった』
「仕事に明け暮れてるよ」
『翔ちゃんらしいって言えばそうだけど、確
りお休みもしないとダメだからね』
「わかってるよ」
近頃必要以上に仕事を詰め込んでいたから、
会ってはいなかった。
雅紀はそんな俺を心配して時々連絡を寄越す
んだ。
『あ、そうだ。今晩翔ちゃん家行っていい?』
「 え… 」
『この前旅行に行ったんだ、一人旅!翔ちゃ
んにフラれたから一人旅になったんだけどね!』
「ああ、悪かったな」
『楽しかったよ!キレイな海も見れたし、美
味しい料理も食べたしね』
「そうか、よかったな」
『うん!それでお土産があるんだ~。だから
翔ちゃん家に持って行こうかなって思って』
「……すまないけど、家は、ちょっとな」
『えっ?どうして?』
「……忙しくて掃除してなくてな、人を呼べる
ような部屋じゃないんだよ」
『あ!俺が掃除しようか?』
「いや、それは悪いから…」
どうにも歯切れの悪い言い方だが、今は誰も
あの家に入れたくはないんだ。
智君以外は…誰も…
『そっか…わかったよ!じゃあ外で会おう!
一緒にご飯行こう!』
雅紀はなんとなく察してくれたようだ、正直
食事も遠慮したいが断ることも出来ない。
きっと家に来たいと言ったのも俺の生活状態
を確かめたかったんだろう。
心配してくれる友、有難いことだ。
だから誘いは無下にできない。
「今晩か?」
『うん、何か用事ある?』
「大丈夫だけど…」
『そう?!良かったぁ!お土産ね、生物じゃ
ないんだけど賞味期限があるでしょ、だから
早く渡したかったんだ』
時間と場所を決めると雅紀は『今日は残業は
絶対無しだからね!』と念を押し電話を切った。
「残業無しか…定時は久し振りだな」
仕事に没頭するのは智君のいない淋しさや苦
しさを誤魔化すためだ。
何かをしていなければ俺は自分の犯した罪の
重さに耐え切れない…
「外食も久し振りだ」
きっと何の味もしないだろうが、今晩は雅紀
に付き合うことに決めた。
*
「翔ちゃん何食べる?俺のお薦めはねぇ」
雅紀に案内された店は小さな中華料理店、所
謂街中華というやつだった。
楽しそうにメニューを見ながら、あれこれと
注文を決める雅紀。
「そんなに頼んで食べきれるのか?」
「二人なら大丈夫でしょ」
確かに以前の俺なら食べきれる量だった、で
も今は違う。
「俺はそんなに食べられないぞ」
「え?マジで?」
「ああ」
「……だからそんなに痩せちゃったの?」
「いや、これは仕事が忙しくて…」
「仕事が忙しくてもしっかり食べなきゃダメ
だよ!今日はオレが奢るから沢山食べて」
「善処する」
「うん、じゃあ注文は唐揚げと青椒肉絲、あ
とは餃子とビールで取敢えずいいかな」
雅紀のオーダーを聞き思い出した。
どれも智君が作ってくれたと。
特に餃子は何回も作ってくれた…
「そういえばオレが翔ちゃん家に居候してた
時によく作ったよね~餃子と麻婆豆腐!オレ
のレパートリーそれしかなかったし」
運ばれて来た餃子を見ながら懐かしそうに雅
紀が言う。
あの頃は食生活に難儀した。
俺は料理はからきし駄目だったし、雅紀は麻
婆豆腐と餃子くらいしか作れなかった。
特に好きだからという理由で麻婆豆腐はよく
食べせられた。飽きるからと麻婆ピザやパン
ケーキ、焼きそばなどアレンジして出された。
時に麻婆アイスなどというものを開発し閉口
させられたりもした。
それに比べると餃子は上手かったな。
餃子をとり一口齧る、旨い
「旨い、けどお前の餃子とはまた違うな」
「でしょ!オレの餃子はねぇ」
雅紀は自分と店の餃子の違いを話し始めた。
野菜は何が入っているか、肉と野菜の割合、
餃子ダレもいいけど酢と胡椒が旨いとか
『翔くん、餃子どう?美味い?』
『うん、美味いよ。智君が作るものが不味い
わけないだろ』
『ふふ、本当に?』
『ああ、本当さ。雅紀の餃子も上手かったけ
ど、智君の方が美味いよ』
『……俺の方が美味いんだぁ、やったぁ…』
『雅紀の餃子はね、酢と胡椒で食べたんだ』
『酢と胡椒?翔くんはそっちの方が好き?』
『サッパリしてるからね』
『そうなんだ…』
記憶がフラッシュバックした。
初めて手作り餃子が夕飯に出た日の会話。
その時は意図せずに言った言葉
あの時の智君はどうだった?
智君の方が美味いと言った時の表情は?
思い出したのは智君の淋しそうな笑顔…
意図しない何気無い会話だったのに、俺には
そんなつもりはなかったのに。
俺はあの人を傷付けていたのか?
次に餃子が食卓に乗った時、つけダレは酢胡
椒になっていた。
『雅紀さんの餃子とは違うから酢胡椒が合う
かわからないけど…』
その時の顔は?
「ぐっ!」
猛烈な吐き気に襲われ口を押さえ席を立った。
「翔ちゃん?!」
雅紀の驚く声を背中で聞きながらトイレへと
急いぐ。
「う、うぇ…」
たまらずに嘔吐した。
普段余り食べていないから固形物などない、
殆どが胃液のようだ。
吐くものがなくなると、今度は涙がボロボロ
と溢れ出た。
「ごめん…」
その時の顔を鮮明に思い出した。
その時俺は小さな違和感を覚えていたんだ。
笑っていた、
智君は笑っていた
でも瞳には淋しさや悲しみが滲んでいたんだ
それが違和感の正体
何故あの時に気付かなかったんだ?
どうして今頃気付いてしまったんだ?
愚かな俺には悔恨の念しかない。
「ごめんぬ…智君…」
ドアを叩く音と雅紀の心配気な声がするが返
答はできない。
ただただ智君を想い嗚咽が止まらなかった…
悪阻?
翔賛暴虐此以終了