お山の妄想のお話しです。
『 智君 』
「翔くん…」
家の前の浜辺に一人座り海を見ていた。
夜の海、暗い海、でも空には沢山の星が煌め
いていて恐ろしさは感じなかった。
寄せては返す波の音…
何故かその中に忘れたい声が混じって聞こえ
る。
俺を優しく呼んでくれた声、
幸せだと感じていた頃のあの人の声。
自分のものだと信じていた、
信じたかった。
本当は何一つ俺のものなんてなかったんだ、
翔くんの総ては皆別の人に向かってた。
わかっていたのに、だから離れたのに。
翔くんから離れて一年近く経つ今でもまだ想
いを捨てきれないなんて、駄目だな俺は…
「 俺って、駄目だな 」
「 なにがだ? 」
独り言に返事がきて、驚いて振り返るとそ
こには松岡さんが立っていた。
「松兄かビックリしたよ」
一緒に暮らすうちに打ち解けて、今では松兄
と呼んでいる。
「俺の方が驚いたぜ、一服しようと外に出た
ら浜辺にポツンと人が居るしよ」
「海見てたんだ」
「暗くてよく見えねえだろ」
「そうだな、でも考え事には丁度いいんだ」
「へ~」
松兄は俺の隣に座った、そして同じ様に海を
眺めた。
「お前さ、何か悩んでるのか?」
「え、どうして?」
「この頃おかしいからよ。皆で楽しく笑って
ても突然お前だけ泣きそうな顔したり、呑気
にぼんやりしてるなって見てると急に苦しそ
うにしたりさ。情緒不安定っぽいな」
「んふふ、情緒不安定かぁ。そうかもね」
だって日常の瞬間にふと翔くんを思い出して
しまうから。
「だから、悩みがあるなら俺に言ってみろよ。
何もアドバイスは出来ねえかもしれないけど
言ったらスッキリするだろ?」
「う~ん…松兄引かない?」
「たぶんな」
ぷっ、と笑ってしまった。
普通なら気を遣って『絶対に引かない』とか
言うだろうに。
松兄は自分の意見をハッキリ言うけど思いや
りもある、男気がある人だ。
だから話す気になってしまったのかな。
「俺、前に付き合ってた人を忘れられない」
「そうか」
「忘れたいんだ。でも、どうしても忘れられ
ない」
「…まだ好きなのか?」
「うん。好き」
「何で別れたんだ?」
「…相手には俺より好きな人がいたんだ」
雅紀さん……
ぎゅっと胸が痛む。
「お前それがわかってて付き合ってたのか?」
「うん、いつか俺が一番になってやるって気
合いだけでね。でも駄目だった、俺じゃ駄目
だったんだ」
「…そうか。お前頑張ったんだな」
「自分なりに頑張った、すげえ頑張った」
でも駄目だった。雅紀さんには敵わなかった。
「で、別れたと」
「 うん 」
「で、まだ心が残ってると」
「うん」
「本当に忘れてえのか?」
「忘れないと前に進めないだろ」
「お前の前に進むって何なんだ?新しい恋が
したいのか?」
「……なんだろ?新しい恋はまだいらないな、
ただあの人を忘れて楽になりたいだけかも」
「無理に忘れようとしても駄目だろ。いつか
自然に何とも思わなくなるまで今まで通り過
ごした方がいい」
「うん」
「焦って忘れなくてもお前は少しづつ前に進
んでるよ。今に元カレより格好いい奴が現れ
るさ、そうすれば自然に元カレなんて忘れる
だろうよ」
「 ……うん」
「人生は長いんだ、焦んないで行こうぜ。
元カレの事だって思いだし過ぎたら嫌気がさ
すだろうしな」
「そうかな…」
松兄は煙草に火を着けた。
「まあ、全てはお前次第だろ。新しい恋をす
る気がないなら元カレとの日々を思い返すの
も悪い事じゃねえよ。ただそれを『幸せの記
憶』とすればいいんだ。元カレより辛かった
事を忘れろよ、そうすりゃきっと気が楽になる」
「楽しかった時だけを思い返すの?」
「そうだ、難しい事じゃない。だいだい人間
の記憶なんて辛いことを忘れるように出来て
んだよ。防衛本能つーやつだ」
「自己防衛かぁ?」
「お前がマゾじゃなきゃ、負担を減らすよう
に無意識で働くさ」
「…うん」
それから、暫くの間松兄と二人で夜の海を見
つめていた。
いつの間にか俺を呼ぶ声は聞こえなくなって
いた。
*
『じゃあ行ってくるから、何かあったら連絡
するんだぞ』
『知らない人が来たら鍵開けたらあかんよ』
そう言って城島さん達はバンドのライブのた
めに都会へと出掛けて行った。
俺も誘われたけれど原稿の締め切りが近かっ
たから断った。
でも、本当は逃げてきたあの街に戻りたくな
かったんだ。
いつもは賑やかな家が静寂に包まれている。
広い家に一人きり…
原稿は進むけれど、なんだか淋しい。
少し心細くなった時に電話が鳴った。
電話にでると、漁港の近くの食堂のおばちゃ
んからで魚が足りないから持ってきて欲しい
という用件だった。
城島さんの船は魚を市場で競りにもかけるけ
れど、ネット販売や近くの店に卸したりもし
ている。港の食堂は御得意様だ。
雑用係の俺は何度も配達しているので要領を
得ている。
すぐに魚を準備して食堂へと向かった。
「おばちゃ~ん、持ってきたよ」
「あら、さとちゃんありがとね」
勝手口のドアを開けるとおばちゃん達が忙し
そうに働いていた。
「ほらこれをお食べ、お駄賃だよ」
配達のご褒美だと旨そうな煮魚を貰い、準備
中で客がいない座席で頂くことにした。
「やっぱ、おばちゃん達の料理は旨いね」
「そうだろ?年季が入ってるからね~」
おばちゃん達と話していると、店の入り口か
らひとりのおばちゃんが不審な顔で入って来た。
そして俺の顔を見ると急いで寄ってきた。
「さとちゃん、良いところにいてくれたわ」
「ん?どうかしたの?」
「あのね、堤防にずっと座ってる人がいるの
よ。何だか思い詰めてるようにも見えてね、
心配だから様子を見てきてくれないかい?」
ここに来た時の俺みたいな人がいるのか…
あの時は長瀬君が来てくれたっけ。
今回は俺の番なんだな。
「いいよ、行ってくる」
「さとちゃんお願いね」
「うん」
本当は緊張してたけど、おばちゃん達を安心
させる為に笑顔を作り店を出た。
堤防を見ると若い男性がぽつんと座り、海を
眺めていた。
おばちゃんが言うように思い詰めてる様にも
見えるけど……
とにかく話しかけてみようと、俺は男性へと
向かって歩いた。