前の記事は、メモなんですが。→こちら



そこに罪悪感を手放す必要性について触れていたと思います。

私たちの中の罪悪感が、義務感を呼び起こしたり、自分よりも他人へエネルギーを使ってしまうことがあるのです。
罪悪感があると振り子に捕まりやすくなるので、
とにかく罪悪感というのは、とっとと手放す必要があるそうです。

この罪悪感について詳しく抜粋していた記事があるのでそちらを参加までに貼っておきます



罪悪感

「罪悪感」とは、純粋な形の過剰ポテンシャルである。良いふるまいも悪いふるまいも、「平衡力」にとっては等価値であり、ただエネルギー場において発生した異質なものを取り除こうとするだけなのだ。


もしあなた自身が罪を犯したと思わないならば、誰もあなたをあえて裁こうとはしないだろう。しかし、あなた自身が自分を裁判にかけたがために、他人はあなたを裁くことになる。

劣等感を抱くそもそもの原因とは「罪悪感」である。自分で罪を引き受けようとする気持ちを持っていて、自分を他者と比べつつ、他者があなたに対して優位に立つ権利を渡し、他者があなたよりもましだと考えることを容認したのは、あなた自身であることに気づいていただきたい。


もしあなたが誰にも害を与えていないのなら、たとえ何に対してであれ、誰もあなたを裁く権利は持っていないことを肝に銘じるべきだ。 皆の前で自分を非難するべきでもないし、自分を弁明するべきでもない。自分の存在意義の評価を、他人の手に委ねてはならない。あなたはもうこれ以上、自分を弁明する必要はない。なぜなら弁明するべきものがないからだ。


あなたの短所を見つける人は必ずいるが、あなたが「罪悪感」から解放されているならば、あなたを犠牲にして自己肯定に励もうなどとは、誰の頭にも思い浮かばない。「罪悪感」とは縁を切る必要がある。潜在意識に潜んでいる、罰を受けるあらゆる可能性を排除すること。


あなたを裁く権利は、誰も持っていない。あなたは、あなたでいる権利を持っている。もし自分自身でいることを自分に容認できるならば、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまう。すると、誰もあなたを侮辱しようとはしなくなる。

個人的な尊厳を勝ち得るための鍵は、罪悪感を持っていないということにあり、本当の個人の力は、その人格が「罪悪感」からどれほど自由でいられるかにある。



「罪悪感は、振り子、すなわち多くの場合は人形遣いが、人間を操る時に使う糸となる(第1巻p197)
「誰かが罪悪感を自分に受け入れる姿勢を示すやいなや、人形遣いたちがまとわりついてきて離れず、エネルギーを吸い取りに掛かる。彼らの影響下に陥ることのないようにするためには、罪悪感と縁を切るだけでよい…もし本当に罪があるのならば、罰を受けることはできる。だが責めを負った状態のままでいることだけはやめたほうがいい(第1巻p198-199)


「許しを請うこと、自分の過ちを認めること、罪の許しを神に祈ること、懺悔することなど、これらはすべて罪のポテンシャルから解放される方法である……ひとつだけ気をつけなくてはいけないことは、懺悔が人形遣いたちへの従属関係に移行しないようにする点である……人形遣いたちは、この過ちを幾度となくあなたに思い出させ、あなたの中に罪悪感が維持されるように挑発する。彼らの挑発に乗ってはいけない。過ちに対する許しを請う権利は、一度行使したら、それでおしまいなのである(ヴァジム・ゼランド振り子の法則第1巻p203)」




 情け容赦のない環境、すなわち牢獄、強盗団、軍隊、裏町などで生き抜くためには、罪悪感と縁を切ることが最も効果的な方法である。犯罪社会において、「信じるな、恐れるな、助けを求めるな」という不文律が生きているのも、それなりの理由があってのことなのだ。この掟は、過剰ポテンシャルを生み出さないようにと教えている。好戦的な環境の中、人に悪事を働かせる際に役に立つポテンシャルの基本にあるのが罪悪感である。自分の安全確保を可能にするのは、自分の力を誇示すればよい。一番強いものしか生き残ることのできない世界では、このやり方が効力を発揮する。しかし、実はこれは非常に効率が悪い。はるかに効率のよいやり方は、潜在意識に潜んでいる罰を受けるあらゆる可能性を排除することである。(中略)個人的な尊厳を勝ち得るためのカギは、罪悪感を持っていないということにある。本当の個人の力は、喉をわしづかみにすることにあるのではなく、その人格が罪悪感からどれほど自由でいられるかにある。
 有名なロシアの作家アントン・パブロヴィッチ・チェーホフは言った。「私は自分の内にある奴隷の血を一滴一滴絞り出している」。罪悪感から逃れようとする意志がこの一言によって協調されている。逃れるということは、つまり闘うということである。しかしながら、トランサーフィンは闘うとか自分に強制するとかいうこととは関係が無い。別のことが行われるのである。それは、関係を断つ、すなわち、選ぶ、ということである。自分の中から罪悪感を絞り出す必要もない。自分の信念に従って生きることをただ容認するだけで十分なのだ。あなたを裁く権利は誰も持っていない。あなたはあなたでいる権利を持っている。もし自分自身でいることを自分に容認できるならば、弁明する必要性は消えてなくなり、罰せられる恐怖は吹き飛んでしまうだろう。すると驚くべきことが本当に起こる。誰もあなたを侮辱しようとはしなくなる。たとえ、あなたがどこに居ようともである。牢獄、軍隊、強盗団、職場、裏町、酒場など、どこにいても・・・。誰かが暴力で脅すような状況に遭遇することもまったくなくなるだろう。他の人たちは時として何らかの暴力に遭うだろうが、あなたは違う。なぜなら、潜在意識から罪悪感を追い払ったためである。
これは、つまり今いる人生ライン上では罰を受けるシナリオは単に存在していないというただそれだけのことなのだ。




ということで今日は罪悪感についてより深めてみました。

私たちはどうしても罪を抱えていなければいけない、反省しなくてはいけないというような優等生的なところがあります。

でもそんなの手放してしまえばいいのです。


実はすでに全て許されているってことを思い出せばいいだけのことですよね。 



トランサーフィンでは、罪悪感を手放すために、弁明することをやめるというやり方をするのは凄いなぁと思いました。


悪いと思ったら謝り、わざわざ全てに弁明もせず、ありのままの自分でいることをただ認めるだけ。

どうしても弁明が必要な時にだけ、ちゃんと弁明すればいいそうです。(冤罪とかですかね)



ということで、罪悪感はどんどん手放していきたいですね。



今日はこの辺で飛び出すハート