草野麻衣の遺作として発表された『ミュンヘンから』は予想以上に売れ上げを伸ばしていた。


これまではいつも英語の題だったのに、なぜこの作品は違うのだろう。


彼女を今までずっと見てきたファンにとっては素朴な疑問だった。


もうそれで何かが違っていることを予感させられる。


読んでみて納得する、やっぱり違う・・と。


今までの麻衣の創りあげる世界とは全く違う空間がそこには存在する。


人に優しく繊細に感じられた世界から一変してひどく攻撃的で粗削りだ。


別の人間が書いているような錯覚に陥るが、こういう文章を書く『草野麻衣』もいるのだ。


これは麻衣が自分に叩きつけた挑戦状だったのかもしれない。


どういう思いでこの物語を書き上げたのかを今となっては聞けない現実がある。


読者の間では賛否両論あった。


今までの方が好きだと言う人も、こういう世界も好きだと言う人もいた。


いつも純粋さを前に出したものが多かったが、こういう人に見せたくない、見られたくない部分の表現もまた格別だった。


この次が無いことが残念だ。




涼介は会社を辞め帰国した。


誰も涼介を責めはしなかった。


あの土地にいることが辛かった。


あんなに好きだった街で妹があんなことになってしまって・・もうあの場所で頑張ることはできないと思った。


こんな個人的なことで転勤を希望する自分も許せなかった。


いつも躓いて傷を負っている人間は、その傷が少しぐらいひどくたって起き上がってまた走ることが出来る。


涼介はその『躓き』というモノに全く縁がなかった。


毎日、麻衣の本を読んでは涙を流していた。


(俺があんなことを言ったばっかりに、オマエを死なせてしまった。


ゴメンな。)


今の涼介に麻衣の心を伝えられる人間はいない。


こんな姿の涼介を麻衣は望んでなんかいないのに。


ある夜、涼介は部屋のベランダから星空を見上げていた。


ドイツで麻衣と見たプラネタリウムをを思い出しながら・・。


麻衣は星を見ながら何を考えていたんだろう。


そう言えば、プラネタリウムによく行くようなことを言ってたな。


明日になったら、俺も行ってみようか。


そう思いながら眠りについた。


明日の予定をたてたのは、あの時以来初めてのことだった。


朝、目が覚めると太陽は顔を覗かせていた。


ゆっくりカーテンを引くと眩しい光が差し込んでくる。


暖かい一日になりそうだ。


少しずつ寒さも和らいできているのだろうか。


今日は幼稚園の卒園式らしい。


黒い服の胸元に小さな花の可愛らしいブーケを付けた人がやたらと多い。


男の子も女の子も母親の隣を纏わりつくように歩いている。


自分の未来に輝く何かがあると信じて疑わなかった頃。


夢は必ず掴めると本気で信じていた頃。


現実というものが自分に重くのしかかってくる日が、やがてやって来ることも知らずに。


未来はいつも自分の味方だと思い込んでいた自分が、とてもつまらないヤツだと知る日が来ることも知らないで・・。


だが、こんなことは誰もが経験することで、恐れることなんてないのだ。


優等生の涼介も、元気なだけが取り柄のような近所の俊二も、それぞれ自分のいる場所で感じていたのだから。


この先、どの道を選ぶにしろ、自分で歩いて行く力と勇気を養えよ。


それさえ持っていれば、俺より『まし』な時間が過ごせるから。


そう心で呟いた。


出かける準備を済ませガレージに向かう。


尚が車を麻衣のマンションから家の方に届けていたのだ。