尚は美緒と別れることを決めた。
彼女はきっと嫌だと言うに違いない。
だが、今言わなければこの先ずっと言えないままになりそうだった。
彼女が納得するまで待つことになるかもしれない。
ただ正直な気持ちを伝えなければ自分はこの先一歩も前に進めないと思った。
勝手な男だと思われるのも覚悟している。
その通りなのだから。
良く思われたまま別れようなんて、そんなことを考えているわけでもなかった。
章吾は、バイトを辞めることにした。
そして手話を習い始めた。
童話を描き始めた。
今まで何をするでもなく過ごしていた章吾がまるで別人のような輝いた瞳をしていることに周りにいる誰もが驚いた。
考えることさえしなかった自分の未来についても少しだけ『これ』というものが見えてきていた。
『人と拘って生きて行きたい』科学の進歩も企業での昇進も興味はない。
いつも人の心に触れていたい。
温かい心、冷たくなってしまった心、広い心、閉ざされた心。
その様々な心の扉を叩きながら生きたい。
「そんなんじゃ、金は儲からない。」
友人は冷めた顔で言う。
それでも他のことは考えられない。
「お前はいいよ。
金なんて苦労しなくたって入ってくる環境にいるんだから。
いざとなれば親父さんの会社にだって入れるし、あの賃貸マンションの家賃だって、いずれはお前に入ってくる。
そういうヤツって得だよな。
夢や理想に乗っかって生きて行けるんだから。
こっちはどんな会社にでもいい、頭を何度も下げて入れてもらわなきゃ暮らせない現実がある。」
「そうかもしれないな。」
章吾はその言葉をあっさりと肯定した。
それは章吾がずっと思ってきたことで、同時にそれがとても窮屈で嫌だった。
あの日あの店でマスターは言った。
「それはあなたに与えられたチャンスですよ。
人は妬みとかそんな余計な感情で好きなことを言います。
視点を変えてごらんなさい。
『生活の補償をするから、キミは心の命ずるままに今を生きろ』そういうことかもしれませんよ。」
物事を全部そんな風に考えられたら幸せなモノだと、あの時は呆れて聞いていた。
だけど、そんな彼の言葉が呪文のように流れていた。
一度は捨てた『未来』だった。
それなら思い通りに進んでみるのもアリかと考えた。
「章吾、ホントに辞めちゃうの?」
女の子たちは残念そうに言う。
「今までありがとうな。」
「何だかそんな章吾を始めて見るよ。」
言ってみればここは舞台だった。
現実から逃げて駆け上がった舞台だった。
ここにいれば実際ラクだった。
冗談言って笑って・・。
ここにいても何も見つかりそうになかった。
自分のための人生を模索しながら新しい道を選ぶことにした。
遥への思いを胸にギュッと抱いて
忘れないことじゃなくて、消し去ることじゃなくて、そう自分の一部として遥を受け入れた。
「ここにいるのは本当の俺じゃないんだ。
一番大切だと思っていたモノを失って投げやりに生きているだけだった。
こんなのもありかな・・そう自分にいいながら。
そう、歩き出すことから逃げてたんだ。
だけどやっと新しい一歩を踏み出す覚悟が出来た。
いろいろ世話になったけど、これでサヨナラだ。」